礼拝説教要旨(2012.06.03)
十字架だ!十字架につけろ!
(ルカ 23:13〜25)

 総督ピラトは、「この人には何の罪も見つからない」と、イエスの無罪を証言していた。祭司長たち、ユダヤ人の指導者たちは自分たちの出した判決を、何としてもピラトの認めさせようと訴えを止めなかった。その騒ぎが大きくなる内に群衆が増え、イエスに対する裁きの行く末が、益々注目されるようになっていた。先の段落において告げられたこと、それはイエスの無罪性である。ピラトはそのことを人々に語り、ヘロデも罪を見出すことはなかった。ルカは証人を二人立て、その確かさを告げようとしたと思われる。そしてイエスは、再びピラトの前に立たされていた。

1、その無罪性について、ピラトの確信は揺るがなかった。自分で取り調べたのに加えて、ヘロデも同じように、有罪とする事実を見出すことはなかったことを、民衆も含めユダヤ人たちに語った。(13〜15節)ところが、何を思ったか、「だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」と、そのような判決を告げた。「何の罪も見つからない」、「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません」と認めながら、「懲らしめたうえで」と、ユダヤ人たちの怒りを、それで静めようと考えたようである。釈放するのがピラトの結論であるが、民の思いを受け止めるには何かがいると・・・。けれども、その考えは通じなかった。ユダヤ人たちは一声に、「この人を除け。バラバを釈放しろ」と叫んだ。過越の祭りの時、恩赦の習慣があった。イエスを釈放しようと考えたピラトであったが、人々は、「バラバ」という正真正銘の犯罪人を釈放せよと、ピラトの意図しなかった方向へと展開していった。(16〜19節)ここに至までに、「民衆」はかなりの数に達していたと思われる。と同時に、民衆の心変わりは驚くばかりであった。受難週の始まりから、多くの民衆がイエスの周りに集まっていた。イエスの教えを聞くために集まる民衆の手前、民の指導者たちは、手をこまねいていたのである。

2、ところが今、その民衆も含めてユダヤ人の多くが、「この人を除け。バラバを釈放しろ」と、声をそろえて叫び始めた。ピラトは尚も、イエスを釈放しようと、彼らに呼びかけたものの、民衆は遂に、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けるまでに興奮していたのである。ピラトはもう一度、ユダヤ人たちを説得しようとした。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。・・・」(20〜22節)彼はその職務を果たそうとしていた。確かに公正な裁きをしようと、その誠実さは伺える。けれども、どこか、もう一歩毅然としたものがなかった。罪のない方を、「懲らしめたうえで、釈放します」という、曖昧さを見せていた。ローマ総督として、ユダヤ人社会を治める苦悩も経験していたからであろうか。そして、自分自身の身に火の粉が降りかかるのを、何としても避けたいと願っていたのである。熱狂する民の叫び、「十字架だ。十字架につけろ」の大声は止まず、「ついにその声が勝った。」その叫び声は「ますます強くなった」ので、ピラトはその要求を受け入れる他ないまでに、追い込まれたのである。(※新共同訳参照)民の叫びには、ピラトの身を脅かすことをほのめかすものがあり、その声に対抗するより、民に妥協する道を選んだのである。こうして、暴動と人殺しのかどで捕らえられ、恐らく十字架で処刑されようとしていたバラバが釈放され、罪のない主イエスが、バラバの身代わりになるようにして、十字架を負うことになった。(※ヨハネ18:39〜19:16)

3、ルカ福音書は、イエスの無罪性を繰り返し浮き彫りにしている。そして、バラバの釈放を記して、主イエスが、バラバの身代わりとなられたことを明らかにしている。「暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者。」バラバには、恐らく仲間がいたことであろう。暴動の首謀者であったなら、そのバラバを釈放することは、次の騒動を警戒しなければならず、ピラトには非常に決断し難いことであった筈である。それでもピラトは、目の前に迫る、自分自身への危機を回避しようとした。この福音書は、こうした事実の一つ一つを浮かび上がらせ、読者自身が、自分の身を振り返ること、自分の生き方を問い直すことを迫っている。罪ある者が赦され、解き放たれるために、罪のない方が身代わりとなる事実があった。バラバのように極悪人であるかどうかは別として、読者自身は、自分の罪を自覚しているのか、どうなのか・・・。ピラトと自分を見比べ、人々の声に押されて、真実をねじ曲げていることはないか・・・。イエスに対して、自分の答えを出さずに通り過ぎてはいないか・・・。自分の身の安全ばかりが、一番大事と考え、結局のところ破滅の道を歩んではいないか等々、様々のことが問われるのである。

<結び> 最後に、民衆の心変わりは、私たちに他人事ではなく、心を神に向かわせ、神の教えに注意深く聞き従う歩みの尊さを、改めて心に刻むよう迫るものがある。最初、イエスを死に追いやりたいと願っていたのは、ユダヤ人の指導者たちであった。祭司長や律法学者たち、パリサイ人も含めた民の指導者たちが、イエスを捕らえ、亡き者にしたいと機会をねらっていたのである。民衆は、イエスの教えを喜んでいた。その民衆の反感を買いたくはなかったので、祭司長たちは苛立っていた。ところが、イエス逮捕から、深夜の裁判、早朝のピラトの前での取り調べ、ヘロデのもとへの移送、再びピラトの前・・・と、慌ただしい時間の経過の間に、民衆はイエスの側に立つどころか、すっかりユダヤ人の指導者たちの側に立つようになっていた。彼らも一緒になって、「十字架だ。十字架につけろ」と、声をそろえて叫んでいた。唆されたのか、動員されたのか、真相は明らかでないが、喜んで教えを聞いていたのとは、全く違った姿を見せている。教えを、ただ聞いていただけだったのか、身に着いていなかったことが露呈してしまった。上辺だけの信仰の恐ろしさを知らされる。(※使徒3:13〜15)

 私たちは、十字架に磔けられるために引き渡された主イエスを、私の罪のために死なれた方、私の救い主と心から信じているだろうか。今一度、心の内を神ご自身によって探っていただこうではないか。民の要求に負けたピラトがいた。それは正義の敗北のようであったが、神の救いのご計画は、全く揺るがなかったのである。神は、罪のない方を十字架で屠ることによって、罪の代価を払われ、十字架の主イエスをキリスト、救い主と信じる者の罪を赦す、救いの道を備えられたのである。バラバが釈放された事実を通して、身代わりの死は、こんなにも鮮やかに、確かに成し遂げられることが示されている。私のために死なれたお方、主イエス・キリストを信じる信仰に生きるように導かれたことを、心から感謝したい。そして今朝ここに集う者が皆、この信仰に導かれるようにと、心から祈りたい。