礼拝説教要旨(2012.05.27) =ペンテコステ礼拝=
何の罪もないイエス
(ルカ 23:1〜12)

 4月8日にイースター礼拝をささげてから7週が過ぎ、今朝はペンテコステ(五旬節)を迎えた。イースターとペンテコステは、その年によって日にちが変わるが、キリストの十字架と復活、そして聖霊降臨の出来事を覚え続けるため、私たちは大切な記念日として礼拝をささげている。キリストが十字架で死なれ、三日目によみがえられたこと、その後、ペンテコステの日に弟子たちに、聖霊が目に見える形を伴って降ったこと、それらの事実があって今日の教会があり、私たちの今朝の礼拝があるからである。今朝も、身代わりの死を遂げるために、十字架へと歩まれた主イエスのお姿を心に刻みたい。

1、ユダヤ人の最高議会は、全員一致をもってイエスを有罪、死に値するという判決を下した。そして、その判決をもって総督ピラトのもとへと、イエスを連れて行った。夜を徹した裁判で判決を下したものの、その当時はローマの支配下にあったユダヤ人議会は、それ以上のことはできなかった。刑の執行は総督の権限のもとにあり、恐らく悔しい思いを抱きながら、イエスについて訴えていた。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」民を惑わし、納税義務に反し、自分を王なるメシヤと称していると。いずれも総督に訴えるための罪状で、ローマ帝国に不都合な存在であることを訴えようとしていた。民衆が惑わされ、国中に混乱が起こるのは総督が恐れたことである。また納税が滞るのも好ましいことではなかった。そして、王であるとの主張は、ローマに反逆する者との印象を与えようとしたのである。(1〜2節)訴えを受けて、ピラトはイエスに尋問した。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスの答えは、「そのとおりです」との一言。ピラトがユダヤ人議会の訴えの一つの、「自分は王キリストだと言っている」を確かめようとしたのに対し、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」と、突き放すように答えられたのであった。あなた自身は、どう思っているのか・・・と。(3節)

2、「そのとおりです」との答えは、「わたしは正しくキリストです」との主張というより、「あなたが言うとおりです」と答えて、問うたピラト自身に「あなたはどう言うのか?」と、答えを求めての言葉であった。(※ヨハネ18:33〜34)ユダヤ人の議会が言うからではなく、また人々が言うからでもなく、自分はどう言うのか、ピラト自身がイエスを誰と言うのか、主イエスご自身がその機会を捉えて、明確に迫っておられたことになる。けれどもピラトは、イエスに、自分を王とすることも、納税禁止のことも、民衆蜂起のことも、何の罪をも見出すことなく、「この人には何の罪も見つからない」と、祭司長たちや群衆に告げるのであった。(4節)ピラトのイエスに対する取り調べについて、いずれの福音書も、あまり詳しく記してはいない。イエスの沈黙や、ピラトの戸惑いが際立っている。そして、どの福音書も、イエスの無罪性について明らかにする中で、この福音書は「何の罪も見つからない」を強調している。(14節、22節、※マタイ27:18、19、23、マルコ15:10、14、ヨハネ18:38、19:4、6)裁かれるような罪、犯罪は何ら認められないと、ピラトは明言を繰り返している。これが主イエスの裁判の真相であった。一方で十字架への道は進み、他方では罪のない者が刑に処せられる筈のないことが分かりながら、それでも神が定められた救いの道が、確実に開かれようとしていた実情が明らかになる。

3、ユダヤ人の指導者たちは、ここで立ち止まることは有り得ず、必死に訴えを続けた。「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです。」(5節)彼らは、ピラトが一番恐れること、ローマへの反逆の予兆があることを告げ、今すぐ手を打つべきと促すのであったが、実際にそんな兆候は全く見受けられなかった。彼は、「ガリラヤから・・・」と聞いて、ガリラヤの領主ヘロデのもとにイエスを送り、時間稼ぎをしようとした。ほんの一時であったが、自分の目の前での裁きを中断することを選び、その場しのぎをした。(6〜7節)しかし、その時、ピラトにとって一番大切なことは、主イエスから突き付けられたこと、「あなたはわたしを誰と言うのか」との問いに、真摯に向き合うことであった。イエスに問い掛けるピラトに、自分の答えがあるのか・・・とイエスは迫っておられた。人が言うから聞くだけなのか、自分でも考えて尋ねているのか・・・と。ヘロデも、折角のチャンスがありながら、単なる好奇心のみでイエスに接していた。(8〜12節)それでイエスから何の答えも聞けず、何の収穫も得られなかった。今日、私たちが聖書を読む時、全ての読者は、同じように問われているのである。福音書に描かれたイエスに接して、その教えを聞き、そのお姿に触れ、そのみ業の一つ一つを通して、この方を誰と言うのか、この方を信じるのかを問われているのである。

<結び> ユダヤ人の最高議会が有罪とし、何としてもイエスを死に追いやろうとしていた時、ピラトは「この人には何の罪も見つからない」と明言していた。この後に記されていることも、その無罪性に触れている。ヨハネの福音書とともに、三度に渡り、有罪とする理由はないと繰り返し、ユダヤ人たちが訴えているような罪は認められなかった、その事実をこの福音書は告げている。それでも主イエス・キリストは十字架で死なれた。その死こそが身代わりの死であった。罪のない方が、罪ある者の罪を負い、罪に対する裁きの死を、身代わりとなって死なれたのである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント第二5:21、※ペテロ第一2:22〜24)「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と語られた主イエスは、その言葉の通り、ご自身の羊である私たちのために、身代わりの死を遂げ、救いの道を開いて下さったのである。聖書を読む私たちは、自分自身を省みることが求められている。(ヨハネ10:11)

 主イエス・キリストは、死ぬべき者が死なないため、滅んでしまわないために、罪の裁きである死をその身に負って下さった。全く罪のない方が罪の代価を支払い、キリストを信じる者の罪を贖われたのである。神はご自身の正しさをいささかも貶めることなく、罪を裁き、罪からの救いを成し遂げて下さったのである。私たちは、この救いに招かれたのであり、その救いの恵みに、今与っているのである。今日ここに集う全ての者が、この救いに招かれていることを感謝したい。心から主イエス・キリストを救い主と信じる信仰に導かれる人が、次々と起こされるようにと祈りたい。今朝、その信仰の決心にはっきりと導かれる人が起こされるように、心から祈り、また心からお勧めしたい。ピラトのように先送りすることはしないよう、心を開くことが導かれるように!