2012年度のもう一つの主題聖句、それは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」である。コリント人への手紙第一1章18節とともに、この一年も覚え続けたい聖句である。「十字架のことば」に根ざした信仰、「神の力」に支えられる歩みが、この教えにそうようにと願うからである。パウロは、テサロニケの教会の人々に向かって、天の御国で救いが完成するのを待ち望みつつ、今を生きること、その大切さを教えようとしていた。神を仰ぎ見て生きる者は、教会の交わりの中で、互いに励まし合い、支え合って生きることを決して忘れないようにと。その思いを私たちも受け留めたい。
1、テサロニケの教会の人々は、「多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」(1:6)、その信仰に忠実に歩んでいた。コリント滞在中にこの手紙を書いてたパウロは、「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」(2:20)と、感謝に溢れていた。「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」(3:8)と言い切る程である。彼の感謝な思いは、天の御国に入る日まで、教会の交わりを喜び、互いに励まし合い、時には戒め合うこともする、そんな歩みを続けるようにと、熱い思いを書き綴ることになった。5章16~18節の言葉は、そこだけが印象深く受け止められる傾向がある。けれども、12節以下の文脈で理解することが大事と、改めて思わされる。「・・・お互いの間に平和を保ちなさい。・・・気ままの者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。・・・・」(13~15節)そこには、コリントの教会でやがて起こりかねない問題が、テサロニケでは起こることのないようにと、警告も含まれていた。競い合うことではなく、互いに補い合い、助け合うこと、そのことを、キリストの教会は何よりも大切にすべきである・・・と。
2、その上で、「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝しなさい・・・」と勧められている。一人一人が個人の生活に於いて、「喜び、祈り、感謝」が求められるのは確かである。けれども、個人個人が自分に言い聞かせるように、喜びや祈り、そして感謝に溢れるようにと、勧められている訳ではない。そのように受け留めるだけなら、とても喜べない現実が目の前に迫ると、たちまち挫折するしかなくなる。悲しみの中に沈む時、祈りの言葉を失う。それでも感謝しなさいと言われると、益々悲しみに沈みことになる。やがて怒りや憤る思いが湧いて、自分を制止し切れなくなるのである。無理矢理に、喜ぼうとし、また祈り続けようとし、そして何があっても感謝しようとするなら、その先には失望が待ち受けているに違いない。肝心なことは、人は一人で孤独に生きているのではなく、人と人との関わりの中で、すなわち教会の交わりの中で生きていることを忘れないことである。喜びに包まれている人がいて、同時に悲しみや痛みに沈んでいる人がいる。その現実の中で、互いに支え合いながら、共に上を見上げる幸いが教会にある。自分が苦しい時、祈れない時、他の人に支えられ、その苦難を忍ぶのが教会の交わりである。そのような教会となるよう、パウロは勧めていた。神がキリストを信じる者たちに求めておられること、それは神が全ての事柄の背後で、必ず手を伸べ、確かな守りを与えて下さると知って、心穏やかに過ごすことなのである。
3、しばしば、この御言葉を文字通りに受け止めようとする余り、かえって混乱が起こっている。「いつも喜んでいなさい。」確かに「いつも」なので、何があっても「喜ばねばならない」と。「絶えず祈りなさい。」だから、祈りを「絶やしてはならない」と。更に「すべての事について、感謝しなさい」と教えられ、悲しいこと、辛いことも、「感謝します」と言いつつ、心は晴れないまま過ごすことになる。そのような信仰生活を続ける内に、やがて教会を離れ、二度と教会に戻ることはなくなる、そんな悲しい事例さえある。祈っても聞かれないのは、信仰の弱さのため、喜びがないのは、祈りの足りなさや信仰の足りなさのため、と言われる場合である。そのように言われると、多くの場合、自分で自分を鼓舞し、一層懸命に励もうとする。けれども、十字架につけられたキリストを救い主と信じる信仰は、そのような生き方、歩み方を教えてはいない。私たちは皆、罪のために、自分では全く破綻した存在なのである。自分では神を求めることさえ、決してできない者、祈ることもできない者である。悲しみの時、神が共にいて下さることを覚えるのみ。祈れない時、祈れない自分を見守って下さいと、祈りにならない思いを告げて、神に全てをお任せするのみである。神の全知と全能を頼るだけ・・・。けれども、その神がおられることこそ、私たちにとって、何ものにも勝る力なのである。
<結び> 「すべての事について、感謝しなさい。・・・」との勧めは、昨年の大震災以来、私たちはどのように、この教えを心に留めるよう導かれているのか、はなはだ難しさを覚える。悲しいこと、痛ましいこと、それら「すべて」と言われると、とても「感謝します」とは言えない。しばしばクリスチャンが、余りに安易に、「感謝、感謝」を繰り返すと、かえって反発を買うことになっている。感謝が表面的であることを、見透かされているのであろう。悲しくて辛い時は、喜べないことを認め、祈れない時は、助けて下さいとしか言えない弱さを認めることにより、弱い者と共におられる神を喜ぶことが導かれる。そこにこそ、この教えの意味するところがある。全てを支配しておられる神がおられるので、私たちはその神を待ち望むことができる。そして感謝に行き着くのである。目の前の悲しい出来事に押し潰されず、その先にある望みに目が開かれるからである。
悲しく痛ましい事柄に、確かに心は押し潰されそうになる。けれども、私たちは自分の生き方を点検させられ、悔い改めを迫られることになる。これこそ、神に造られた人間にとって、いつの時代でも、神が語り掛けておられることではないだろうか。あなたは神を恐れて生きているか、あなたの生き方はそれでよいのか、心を低くして悔い改めることはないか等々、神は問い掛けておられるのである。全ての人にとって大切なこと、それは自分の生き方や考え方は、果たしてこれでよいのかと、立ち止まること、そして、生かされているのは何のためなのか、生かされていることを心から感謝しているのか等々、自問することである。神が必ず、「すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と、私たちも心から告白し、神を賛美する信仰へと進ませていただきたい。神の前に心を低くし、慎ましく、けれども、神が共にいますなら、恐れず、たゆまず、感謝に溢れる、そんな歩みが導かれるように!
(※ローマ8:28~39)
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