2012年度の歩みが始まり二ヶ月目を迎えた。主題聖句は、昨年度に引き続いてコリント第一1章18節とテサロニケ第一5章16〜18節を掲げている。どちらも、他の聖句に代え難い大切な教えである。何度となく学び、心に留めている御言葉であるが、今週、そして来週、思いを新たに耳を傾けてみたい。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(18節)使徒パウロは、この言葉を、どのような思いを込めて語っていたのだろうか。その時、彼は冷静だったのか、それともかなり熱い思いがこみ上げていたのか・・・。
1、この手紙を書いた時、パウロは決して心穏やかでなかったようである。手紙の書き出しこそ穏やかであるが、本論に入るや、「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください」と、キリストの御名によって懇願するのであった。(10節以下)コリントの教会の中に、分裂や分派の争いが生じていたからである。それは思いもよらない事態で、そんなことのために福音を伝えたのではない・・・と、心の底から叫びたかったのである。「私はパウロにつく」「私はアポロに」・・・「私はキリストに」と、誰から洗礼を受けたか、そんなことが教会の中で論じられ、それは、キリストの十字架がむなしくされていることと、彼は直感した。キリストの福音を語る時、十分に注意をしていたとしても、実際に人々の受け止め方は、自分に都合の良い所だけを取り入れ、自分流の生き方を止めない、そんな問題点が浮き彫りになっていた。コリントの町の人々の生き方は、今日の都会に住む人々のようであり、この世の知恵や力を誇り、それに必死に拠り頼むもので、その生き方や考え方が教会の中にも入り込んでいたのであった。
2、パウロにしてみれば、嘆きやうめきにも似た思いに迫られながら、コリントの町で福音を宣べ伝えた時のことが思い出されていた。あれ程注意して語ったのは無駄だったのか・・・。十字架のキリストこそ、私たちの望みであり拠り所である。この世の知恵や知識に頼らず、またこの世の力や、地位や身分に惑わされない信仰、これが十字架につけられたキリストを信じる信仰である。このことを再確認しようではないか・・・と語り掛ける。(※2:1〜5)けれども、コリントの教会の人々が、容易には自分たちの非を認めそうにないことも、パウロは察していたようである。それでいきなり、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と語り、そこに、あなたがたももしや、滅びに至る人々と同じように、十字架のことば、十字架の出来事をむなしくしていることはないかと、叱責も込めたものと思われる。コリントの教会の人々が、その当時の社会にあって生きて行こうとする時、この世で魅力的に生きているか、周りの人々の目にどのように映っているか等々、目に見える部分で評価される、そのような現実が多々あった。そして教会に中にも、人の評価を気にすることが、次第に大きくなっていたからである。※「十字架のことば:キリストが十字架で死なれた事実とその意味すること、十字架によって罪からの救いの道が開かれたこと。
3、知者と言われる人、学者やこの世で地位のある人が信仰に導かれることは、喜ばしいことであった。コリントの町で、そのような人々も教会に加えられたに違いなかった。ところが、そのことによって、教会の中の様子が変わり始めた。特定の人を中心に、「私はパウロに」「私はアポロに」と。その当時も、「十字架のことば」、すなわち「十字架につけられたキリスト」のことは、決して勝利を表しているとは考え難いことであった。ユダヤ人にはつまずきでしかなく、異邦人には愚かであった。人の思いは、昔も今も、勝ち負けを競い、強弱を見分け、何とかして強い者につき、勝ち組に入っていたいと、そう思うものである。だからこそ、パウロ自身、「私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした」(2:1)と語るように、細心の注意を心掛けていた。十字架につけられた方、十字架のキリストだけを宣べ伝えようとした。人々が教えに感動したり、説得されて信じるのでなく、心からキリストを救い主と信じるようにと配慮したのである。人間の知恵に支えられる信仰でなく、神の力に支えられる信仰が起こされるように・・・と。始まりは、実に素朴で、慎ましやかであった。(1:26〜31)ところが、コリントの教会には、人に頼り、また自分を誇る信仰が蔓延ってしまったのである。(※3:3、4、4:18)
<結び> 「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、・・・」十字架につけられたキリストについて、今日の私たちは、思い違いすることなく、この方を信じているだろうか。十字架は教会のしるしとなり、十字架こそ私たちの望みであり、神の力と信じているが、果たして間違いなく、十字架を掲げているか、やはり問われている。(22〜25節)
もし、何がしか、人々に訴えかけ、人々の心を捉えるものを教会は提供すべきと考え、そして十字架以外のものを提示するなら、その時、教会はいのちを失うことになる。真面目に、そして真剣に・・・は良いとしても、人が集まらないなら、果たしてどうなのか・・・と、これまでも度々指摘されて歩んできた。私たちの足りなさや弱さ、また愚かさの故に、私たちの教会の歩みが遅いとするなら、主の前に立たされる時、ただ頭をたれるしかない。けれども、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのみ、このお方を証しするのみと心掛けてきたのは事実である。だから、今あることを感謝し、できることを喜んで果たしつつ、前に向かって進み続けたい。一人また一人が救いに導かれることを喜び、感謝して、私たち自身が十字架のキリストを見上げて、日々歩むように導かれたい。十字架は確かにみすぼらしく、悲しみや痛みを覚えるものである。けれども主イエス・キリストは、私たち一人一人のために、その十字架を忍び、罪の代価を支払って下さったのである。そして、その十字架は死で終わるのではなく、三日目のよみがえりに至るのである。その死は、永遠のいのちへの希望に繋がっている。(※15:1〜5)生ける真の神にこそ望みを置き、この神を信じる信仰に生き抜くことを祈り求め、この年度も歩ませていただきたい。
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