ゲッセマネの園で捕らえられた主イエス、その主を見届けようとついて行ったものの、余りにもあっさり主を否んでしまったペテロ・・・。緊迫した夜が続いていた。自分で自分をどうすることもできなかったペテロは、振り向いて見つめて下さった主イエスの、そのまなざしに触れ、激しく悔いの涙を流すことになった。彼は自分の弱さと愚かさを思い知らされたが、それによって、主が自分のために、必ず祈って下さっていることを知るのであった。大祭司の家では、その間もイエスの取り調べがなされ、イエスを亡き者としようと、ユダヤ人の指導者たちは躍起となっていた。
1、ルカの福音書と他の福音書を読み比べると、イエスの逮捕から大祭司の元での取り調べの様子、そしてペテロの失態について、時間の経過に違いが見られる。ペテロの否認と涙の後、夜が明けたと、そのように理解し易いが、ほとんど同時進行のように、人々の嘲りやののしりがあり、ユダヤ人議会による裁判がなされていた。実際に夜を徹して取り調べがなされ、夜明けと共に正式な議会が招集され、死刑判決をもってピラトの元に主イエスは連れて行かれた。ルカの福音書では、その議会による裁きの様子が、夜中中の人々の嘲りと、夜が明けた後の正式なものにまとめられている。主イエスは人々からからかわれ、鞭で打たれた。それは繰り返し繰り返しなされていた。頭から袋を被せられるようにされ、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と、聞かれていた。分かるのなら行ってみろとばかり、主に問い質していた。そして「さまざまな悪口」を浴びせ、ののしり続けていたのである。顔につばきをかけ、こぶしで殴りつけ、平手で打つ者もいた。主イエスは決して反論することなく、ののしられてもののしり返すことはなさらなかった。(63〜65節、※マタイ26:57〜68)
2、主イエスが、裁判の席で明らかにしておられたのは、ご自分が「メシア=キリスト」であり、「神の子」であることであった。けれども、実際にはそれを声高に叫ばれたのではなく、ユダヤ人の指導者たちが問うのに答えて、はっきりと証言しておられた。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。・・・」人々は、イエスに向かって「キリストか?」と問いつつ、キリストとは認めないでいた。そして、「しかし、今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」と聞いて、「ではあなたは神の子ですか」と問い質した。イエスは、「あなたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。主イエスは、「わたしはキリストであり、神の子である」と証言されたのである。しかし、議会はこれを、自分を神とする罪、神冒涜罪とし、死に値すると断じるのであった。主イエスはその公の生涯において、教えにより、また不思議な業により、ご自分が神であること、メシア=キリストであることを人々に告げておられた。そして今、キリストであり、神の子として、ご自分の民の身代わりとなって死ぬため、十字架へと向かっておられたのである。全く罪のない方、罪人の身代わりとなるキリストとして・・・。(66〜71節)
3、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」(ペテロ第一2:23〜25)裁判の席で、主イエスとユダヤ人の指導者たちとのやり取りは、なかなか噛み合うことがなかった。主ご自身は、やり切れない思いがあったのではないだろうか。心を開いていない人に相対することの虚しさである。けれども、その人々の姿は、真理に目を背ける人の愚かさ、また心の頑なさを現していた。その愚かさや頑なさは、人が罪に堕ちて以来、今日に至るまで、全ての人に当てはまることである。主イエスは、それでも忍耐をもって語り続け、目の前にいる人々に、「わたしをだれと言うか」との問いを発しつつ、ののしり返すことなく、嘲りや侮辱に耐え、十字架へと進まれるのである。私たち一人一人、その主イエスを救い主と、心から信じるようにと招かれたのである。また招かれているのである。
<結び> 神がおられるにも拘わらず、神を信じないこと、また信じようともしないこと、そんな愚かで弁えのないことをするのは、二千年前のユダヤ人の指導者たちだけの問題ではない。真理に目も心も開こうとしない愚かさは、今日の私たちも似たり寄ったりである。信仰に導かれる前の自分、また導かれた後の自分を省みて、思い当たることが多々あるのではないか。主イエスの教え、その生涯、それらを知るなら、この方に倣いたい、従いたいと、そう思うに違いない。ところがつい自分に都合のよい教えだけを受け入れ、自分に益となる限り、祈って助けを求めている、そんな自分がいる。改めて自分の信仰を正していただこうではないか。ののしられてもののしり返さず、十字架へと進まれたのは、この私のためであったと、心から感謝する者と・・・。
主イエスを私の救い主、神のキリストですと、心から信じる信仰かどうか、それを吟味するのに、私たちは何を大切にしているかを、自分に問い直すことで、その答えが明らかになると思われる。今のいのちだけが大切なのか、永遠のいのちを大切と考えているのか。いのちが大切なのか、それともお金が大切なのか、と問うてもよい。神に在って生きるのか、それとも今の生活が全てなのか・・・とも。私たちは果たしてどのように答えるのだろうか。昨年の東日本大震災とその後の原発事故以来、日本中、いや世界中の人が、どのように生きることが大切かを問われていると思う。そんな中で、次々と原発のある自治体で首長選挙が行われている。その選挙結果は、ことごとく現状維持か、原発推進派または擁護派の勝利が続いている。ほとんどの場合に、仕事がなくなることを恐れて、反対派の勢いが萎んでいるとのこと。新聞記事を読んで、自分の信仰を問い直される思いがした。イエス・キリストを信じる本気度を問われ思いがしたからである。十字架の主を見上げ、この方に従い、この方に倣う者とならせていただきたい。(※4月24日毎日新聞朝刊)
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