礼拝説教要旨(2012.04.22)
主イエスに見つめられて
(ルカ 22:47〜62)

 ゲッセマネの園で祈られた主イエスは、祈り終えて立ち上がられた。父なる神のみこころのとおりに従うことを、祈りによって受け止めることができたからである。その時、裏切る者がすぐそこに近づいていた。ユダが、民の指導者たちと群衆を手引きするようにして、イエスの前に進み出た。(47節)よりによって「口づけしようと」近づくのであった。イエスは彼に言われた。「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」(48節)それは愛を込めた挨拶のしるしではないか、一体何を考えているのかと、主は尚もユダに語り掛けておられたのである。

1、イスカリオテのユダは、祭司長たちから既に金を受け取っていた。そのためか、イエスを売り渡すことに必死だったようである。イエスに口づけしたのは、暗がりで人違いなく売り渡す方法と考えたのかもしれなかった。只の口づけではなく、激しくそれを繰り返し、いかにもイエスを愛するかのように振る舞った。主はその心の内を問うように、彼を見つめて語られた。けれどもユダは、そのまなざしに触れず、その声も耳に入らなかった。弟子の一人が剣を振り回し、大祭司のしもべの耳が切り落とされ、主がそれを止め、しもべの耳をいやされた。その場は騒然となったが、主は冷静でおられた。宮で人々を教えていただけの自分に対して、武器をもって対峙することのおかしさを指摘し、しかし、今はこのことが行われる時と、自ら進んで捕らわれることをよしとされた。(49〜53節)弟子の裏切りがあり、民の指導者たちの怒りや妬みが渦巻く中で、「暗やみの力」が支配していたとしても、それら全てを生ける神が治めておられたからである。神の救いのご計画は着々と進んでいた。

2、弟子たちの瞬時の反撃は、直ちに押し止められていた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と明言され、耳をいやされたことによって、武力行使は「やめなさい」と言われたのである。弟子たちはたちまち勢いをなくし、その場から逃げてしまった。マタイの福音書には、「イエスを見捨てて」と記されている。(26:56)しかし、さすがにペテロは心を痛めたのであろう。大祭司の家に連れて行かれた主を見届けようとして、「遠く離れてついて行った。」(54節)彼は少なくとも、そこで何が行われるのか、人々が主に対して何をするのか、見ておかねばならないと、心に決めたものと思われる。けれども、そこで待ち受けていたのは、彼自身がサタンによってふるわれる・・・という、思わぬ試練であった。主がそのことを予告しておられたものの、彼は全く予期していなかった。大祭司の家の中庭、その真ん中で火が焚かれていた。人々に紛れて、ペテロもそこに腰をおろしていた。薪の火が、彼の顔を照らしているとは気づかずに・・・。(55節)

3、火あかりに照らされたペテロを見つけた女中が、「この人も、イエスといっしょにいました」と言ったのに対し、彼はそれを打ち消した。「いいえ、私はあの人を知りません。」少し時間が経って、男の人が「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。いずれも彼の顔を覗き込むよう、確かめながらであった。ペテロは今度も否定した。「いや、違います。」しばらく収まったかと思った頃、別の男の人が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。ペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と、必死に打ち消すばかりである。顔を見られ、ガリラヤ訛りを聞き分けられ、逃げるに逃げられず、話の意味が通じないと、言い逃れるのに精一杯であった。しかし、そう言い終わる間もなく、鶏が鳴いた。(56〜60節)丁度その時、「主が振り向いてペテロを見つめられた。」そのまなざしに触れた時、彼は主が語られた言葉、警告の言葉をはっきりと思い出したのである。人の目を恐れ、人の言葉を払いのけるのに思いが囚われていたのが、今、主イエスに見つめられ、そのまなざしに触れて我に返ることができた。そして彼は、自分の愚かさと弱さを心から悔いることになった。その悔いる心は、外に出て、激しく泣く、涙となったのである。(61〜62節)

<結び> ペテロを見つめられた主イエスのまなざし、それはどのようなものだったのだろうか。厳しく諭すもの、それとも悲しみを含むもの、いや、失望さえ含んでいたのだろうか。その距離はどれ位離れていたのだろうか。恐らくそんなに遠くはなく、主は身体全体を振り向かせることなく、顔を傾ける程度に振り向き、「このことのためにこそ、わたしは祈ったのだ」と言いたげに、ペテロを見つめられたのである。憂いが込められていたかもしれず、しかし、この方の優しいまなざしにペテロは触れ、ハッと我に返るのである。主は私のために祈って下さっていたと、心から気づくのである。ユダも主イエスから、言葉を掛けられていた。そのまなざしに触れていた筈である。けれども、彼は踏み止まることなく、裏切りの行為へと突き進んだのに対して、ペテロは、主に見つめられて踏み止まり、悔いの涙を流すまでに、立ちかえる幸いを経験した。この二人の違いは大きい。私たちは、果たしてどのように主イエスに応答するのだろうか。

 ペテロは、それまで周りの人の目が気になっていた。大祭司の家の中庭に潜んでいたつもりが、女中に見られ、しかもまじまじと見られ、「この人も、イエスといっしょにいました」と言われた時、背筋が凍りついたのである。彼は「いいえ、私はあの人を知りません」とまで言い切り、続く二人の男の人の問いにも、意味不明とばかり、イエスとの関係を全否定した。けれども、自分をしっかり見つめて下さる主イエスがおられること、そのイエスのまなざしに触れて、立ち直ることができたのであった。私たちの信仰も、実にイエスの見守りの中で育まれていることを、はっきりと気づかされる。主イエスは、私たち一人一人にも、愛のまなざしを注ぎ、しっかりと見つめていて下さるのである。この主イエスを見上げるなら、私たちの信仰の歩みは決して揺らぐことはない。弱さがあっても、また愚かさがあっても、この主イエスに従い通す者となりたいものである。(※ヘブル12:1〜2)