礼拝説教要旨(2012.04.15)
いのちが失われるのを、非常に恐れた
(ヨシュア記9章 枝松律教師候補者)

8章では、アカンの罪によって、一度敗北したアイに対して、主がイスラエルに大勝利をもたらし、傷つけられた主の御名が回復されたことをみました。この9章では、アイでの出来事を経たイスラエルに対して、新しい二つの反応が見られます。相集まって対抗しようとしたカナンの王達と、計略をもってイスラエルと盟約を結び、しもべとなって生きようとしたギブオンの町の人々です。これは、アイでの出来事によって、イスラエルの弱点、イスラエルが主の言葉に従えないことがある時、イスラエルに敗北がもたらされることを彼らが知ったためです。9章のトピックは、後者のギブオンの人々です。彼らは、主を恐れたが故に、何とかいのちを得るために、計略を持って、イスラエルをまんまと欺き、盟約を結び、主なる神にかけて誓わせることに成功します。しかも主にかけて誓ったので、イスラエルは、盟約を破棄することができず、彼らを生かすことになりました。欺きをもってでも、いのちを得ようとしたギブオンの人々の姿がここにありますが、ただ単に、欺きを欺きとして捉え、切り捨ててしまうと、彼らの根底にあったものを見失ってしまいかねません。9章を一言で言うと、『罪あるものが、神の下に近づこうとする必死さ』が描かれている箇所です。今日はこのギブオンの住民達の姿を通して、私達に語りかけられていることを見て生きます。

1. ギブオンの人々が何故このような方法を取ったのか、それには3つの理由があります。
第1に、自分達の「いのちが失われるのを、非常におそれた」からです。つまり彼らが、主をおそれ、自らの滅びをおそれ、カナンの神々ではなく、主に信仰を移していたからです。(24節)
第2に、イスラエルが、カナンの民と何の契約をも結んではならなかったからです。(申命記7:2)。つまり、ギブオンの人々には、カナン人である限り、イスラエルと契約を結ぶことが出来なかったのです。そういった意味で、ギブオンの住民達にとって、変装をして、遠い地の民を装うことでしか、イスラエルと盟約を結び、いのちを得る方法がなかったであろうことを示唆しています。
第3に、ギブオンの人々が、イスラエルの弱点、主の言葉に従えないことがあるイスラエルにかけたからです。普通計略とは、人間に対して用いるものです。全知全能の神に対して計略は無意味です。ギブオンの人々もそれは十分わかっていました。しかしイスラエルがいつも主と共にいるとは限らない、主に従わない場合がある、彼らはそのことを知り、そこにかけたのです。結果として、ギブオンの住民達の計略は成功します。14節で、イスラエルは、「主の指示を仰がなかった」のです。イスラエルが、故意ではないにしろ、主に従わなかった結果、彼らは、いのちを得ることに成功したのです。まさにギブオン人たちの狙い通りでした。
以上、3つの理由から、彼らが欺きという方法を用いたのも、それしかなかったからという側面があったことがわかります。

2.しかしこの計略は、イスラエルの失敗を意図して引き出すことは難しいのですから、彼らにとって、決して成功率の高くない、綱渡りのようなものでした。だからこそ、彼らは何とかしてイスラエルを欺こうと、少しでも成功率を高めようと、取りうる手段の全てを必死に用いています。
彼らの必死さは、その用意周到さとその賢さに表れています。長旅を装うことはもちろんですが、とりわけ、盟約を結んで欲しいといっていることに、彼らの賢さを覚えます。
盟約は、ヘブル語において、「契約」とも取れます。また申命記7章2節では、契約を禁じていますので、ここも盟約ではなく、契約と捉えてよいものです。また18節で「主にかけて彼らに誓った」とあるように、イスラエルが契約を結ぶことは、本来、主にあって結ぶものであり、主にかけて誓ったことは、決して破ってはならないものでした。彼らが、契約を結ぶことを願ったのは、仮に欺きがバレても、契約を結んでいれば、自分達のいのちは大丈夫だと考えていたからです。彼らは、主が契約に忠実な方であることを知り、それすらも用いていのちのために活路を見出しているのです。主を知り、恐れつつも、イスラエルとは盟約を結べない状況で、本当に必死に、何とかして、主の庇護の下に入っていのちを得ようとする彼らの姿をここでは見ることが出来ます。他方、これは罪深い人間が、自分でいのちを、救いを得ようとすると、どれだけ精一杯、必死に、知恵をしぼろうとも、このように自分勝手に神すらも利用しようとしてしまうことを意味しています。

3.必死にいのちを得ようと、人間的にですが、最大限の努力をした彼らの姿を、私達はどのように捉えるべきでしょうか。今日の交読文で読んだルカ16章にあるように、罪ある者達がいのちを得ようとするとき、その方法が、罪にまみれた考えや、知恵の中から出てきても、それでも真に主を求める必死さだけは、賞賛を受けるべきものではないでしょか。しかも、ギブオンの住民達は、ただ欺いただけではなかったのです。彼らは、欺きがバレた後、ヨシュアにそのことを問いただされ、永遠の奴隷としてののろいの宣告を受けていますが、その後彼らは、24,25節で、罪を認め、主を告白しています。欺きに欺きを重ねず、罪を重ねない彼らの姿がここにはあります。欺きばかりに目が行きますが、ここで彼らが罪を認めていることを見落としてはなりません。また、彼らが「しもべ」となることを覚悟していたことも重要です。25節には「あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」とあります。これは欺きがバレたから言っているものではありません。ギブオンの住民達は、欺きがバレた時のことを想定していました。だからこそ、彼らは自分たちのことを「しもべ」と呼んだのではないでしょうか。交渉が成功しても、いのちを得ても、欺きが明らかになることは決定的なのですから、自らが「しもべ」となる道しかないことを彼らは最初からわきまえていたのではないでしょうか。換言すれば、「しもべ」でもよいから、おそろしい「主」の庇護の下に入りたい、いのちを得たい、という必死さでもあります。
27節を見ると、彼らは、たきぎを割る者、水を汲む者となりましたが、これは主の祭壇のため、主が選ばれた場所で行うものでもありました。必死に求めたギブオンの住民達、彼らは奴隷となり、自分達の罪の実を刈り取りましたが、与えられたのが、「主」への奉仕でもあったことは、私達に、彼らの主へのおそれと必死さ、そして信仰告白の真実さを印象付けるものなのではないでしょうか。

結び.私はこのギブオンの人たちに対して、強い敬意を覚えます。彼らが、主をおそれ、いのちが失われるのを恐れたこと、その必死さと真剣さ、そして自分の罪を告白し、「お気に召すままに私達を取り扱いください」と、しもべとなる覚悟をもっていたことに、私は強い敬意を覚えます。今一度私達は、自らの信仰告白をあらためて振り返り、いのちを得たことへの感謝と、御国を求めるという必死さを再度覚えつつ、「主」のしもべとしての歩みを確かなものとしたいものです。