礼拝説教要旨(2012.04.01)
いよいよ切に祈られた 
(ルカ 22:39〜46)

 最後の晩餐を終え、主イエスはそこから出て、「いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」(39節)受難週の最初の日から、昼は宮で人々に教えて、夜は、オリーブ山にある「ゲッセマネの園」で、祈りの時を過ごしておられた。しかしこの日は、それまでと様子が違っていた。いつものようにして、いつもの場所に着いたが、主イエスご自身、かなり緊迫しておられた。弟子たちに「誘惑に陥らないよう祈っていなさい」と告げ、ご自分は少し離れた所で、ひざまずいて祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(40〜42節)

1、マタイとマルコの福音書では、出発前、みなで賛美の歌を歌ってからオリーブ山に向かったことや、その途中でペテロへの警告が発せられたことが記され、ルカの福音書と描き方が違っている。そうした違いは、イエスが祈られた様子、また弟子たちが眠りこけてしまった様子を、幾分あっさりと記していることに表れている。マタイもマルコも、「できますなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、あなたのみこころのままに・・・」と三度、同じ祈りを繰り返されたことを記している。そして、二度、三度、弟子たちの所に戻って来て、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と、励ましと戒めを繰り返されたことを告げている。けれどもルカは、それらをまとめ、主イエスが何を祈られ、どの様に祈られたのか、他方、弟子たちは何をしくじっているのかを明らかにしている。弟子たちが警告されていたこと、「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」とは、この祈りに関しても触れられていたのである。

2、弟子たちの、それこそ誘惑に耐えられそうにない祈りの姿に比べ、主イエスの祈りは真剣で、真実そのものであった。二度、三度繰り返された祈りが一つにまとめられ、その祈りの中身が、より明らかにされている。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」明らかに、間近に迫る受難、十字架の身代わりの死に、激しく心を揺り動かされておられた。その死は、罪に対する裁き、刑罰としての死であり、父なる神の怒りがご自分に下ることに、耐え難い思いをしておられた。「取りのけてください」、または「過ぎ去らせてください」は、当然の思いである。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」「わたしの願いではなく、みこころのとおりに・・・」と祈ることは、全ての人の祈りにおいて、最も大事なことである。通常、人の祈りは、「私の願い」ばかりを神に告げるかのようになる。願いを聞かれて感謝し、聞かれないで「何故、どうして・・・?」と、いつまでも心騒がせる。けれども、主イエスは、ご自分の願いを、父なる神のみこころに添うものとなることをよしとし、「祈り終わって立ち上がり」、いよいよ十字架へと、また一歩踏み出されたのであった。

3、神のみこころをはっきりと受け止めること、そのためにこそ祈りがささげられていた。イエスご自身にとっても、それは易しいことではなかった。正しく苦痛と苦悩が伴うことであった。「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(44節)苦しみにもだえ、汗が血のしずくのように地に落ちた、その様は、みこころを自分のものと受け止めることの、その難しさを示すようである。ひたすら熱心に祈られたというより、祈りにおいて神を待ち望むしか、他に助けのない切実さを覚えられたのに違いなかった。苦闘する祈りを「いよいよ切に祈られた」のである。その祈りには、天からの助けがあったと記されている。「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」(43節)主イエスご自身も、祈りにおいては、上よりの助けによって支えられていた。すなわち、祈りは人の熱心や力によって持続できるものではなく、上からの助けと導きによるものなのである。聖霊の導きがあり、その助けがあって、私たちも祈り続けるのが可能となることを、決して見落としてはならない。(※ヘブル5:7、ローマ8:26)

<結び> 主イエスが、ゲッセマネで「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」のは、一体何のため、また誰のためだったのか。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られた、その父なる神の「みこころ」とは、何であったのか。罪のない方が、罪の刑罰をお受けになるのは、全く理不尽なことであった。父から見捨てられる苦悩は計り知れず、その裁きを一身に引き受けるのは、イエスご自身、途方もない恐れに包まれることであった。けれども、身代わりの死を遂げるため、今、十字架に向かっておられることも分かっておられた。だからこそ、父なる神の「みこころ」に従う、その確信と従順に至るまで、「いよいよ切に祈られた」のである。祈り終えた時には、最早迷いはなかった。「みこころ」に従いますとの思いで、「みこころのとおりにしてください」と祈り終え、立ち上がった。この祈りがあって、私たちの罪の赦しの道が開かれ、赦された者の心に、確かな平安が与えられるのである。

 この主イエスの祈りを通して、私たちは祈りの大切な一面を教えられる。祈りは、私たちの願いを神の申し上げることであっても、神の「みこころ」に私たち自身が近づくこと、神のご意志を、祈りを通して探ることである。それが分かったなら、心から従いますと、潔く立ち上がること、そんな祈りを主イエスはささげておられたのである。果たして私たちは、主イエスに倣って、そのような祈りをささげているだろうか。とてもできていない・・・。それでもイエスに倣うようにと、聖書は私たちに教えている。私たちの祈りも、聖霊の助けがあり、導きがあるので、できそうにないと思えても、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と、励まされているのである。導きと助けは、必ず備えられている。上よりの助けにより祈りは導かれる。苦しみの時、困難な時、主イエスを仰いで、「みこころのとおりにしてください」と、いよいよ切に祈ることを導かれようではないか。