最後の晩餐の席で、弟子たちは「この中でだれが一番偉いだろうか」と、場違いなことを論じ合っていた。主イエスはそれをたしなめ、「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。・・・・・しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」と語られた。そして、弟子たちにとっての肝心なこと、それは試練の時にも、「わたしについて来てくれた」ことと賞賛し、確かな報いを約束されたのであった。けれども、御国の王権を約束された弟子たちといえども、信仰の歩みには必ず、紆余曲折のあることについて警告を発せられた。
1、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(31節)サタンが弟子たちに対して、何がしかの攻撃を仕掛けることがあるというのである。不気味と言えば不気味、そんなことはあって欲しくない、と誰もが願うことである。サタンに惑わされる時、シモンの信仰が揺らぎ、その信仰を失いかねないことを、主イエスはご存知であった。それで、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、彼に告げたのである。(32節)自分の弱さや愚かさを知っていたなら、主の思いやりに感謝するところである。けれども、彼は反論した。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』(33節)この強がりが、脆くも崩れ去ることを聖書は告げているが、この時、彼は自分の弱さに全く気づいてはいなかった。
2、主が共におられるなら、牢であろうと、死であろうと・・・との勇ましさであった。信仰深そうな言葉であり、自分の信仰は自分で保てるもの、自分の信仰心こそ、誰にも負けないと、誇ってもいた。(※マタイ26:33)しかし人が口にする、「覚悟はできております」との言葉ほど、脆いこともまた事実である。「大丈夫です」と言い張る時、本当は「大丈夫ではない」と発信しているのかもしれない。本人も気づかないままに・・・。主イエスは、シモンに、今度は「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われた。(34節)「ペテロ」とはシモンに付けられたあだ名であった。「岩」または「巌」を意味する名前で、その名をもってしても、これから襲ってくる誘惑に、とても太刀打ちできない弱さのあることに、気づくよう言われていたのである。どんなに自分では大丈夫と、そう思っていても、サタンにふるわれる時、それに耐えられるのは、自分の力や決意にはよらないことだからである。主イエスに祈られて、そして支えられることがあって、弟子たちの信仰は保たれていたのである。
3、主イエスは、一連の教えを締めくくるよう、かつて伝道に遣わされた時のことを思い出させて言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」(35〜36節)以前と今では、状況が大きく変化し、今は「剣」が必要な時であることが告げられている。更に、聖書に預言されていることが、「わたしに必ず実現するのです。・・・」(37節)と語り、罪人の一人に数えられる、苦難の僕の死が、ご自分の身に及ぶことを告げておられた。(イザヤ53:12)ご自分がこの地上に来られた、その目的、その意味、それらが今こそ全て成就し、実現する時が迫っていると語られたのである。けれども弟子たちは、相も変わらず「主よ。このとおり、ここに剣が二ふりあります」と、「剣」を文字通りの剣とだけ考えていた。(38節)主イエスが「それで十分」と言われたのは、話がなかなか通じないまま、最早これまで・・・と言いたかったものと思われる。いよいよ十字架に向かうのに、今はこれまでにしようと、そう思われたのに違いない。主が言われた「剣」は、神の武具としての「剣」、神の言葉を心に蓄えること、神の御言葉に拠り頼む信仰に進むことの大事さを指していたのである。
<結び> 私たちは、自分の信仰について、自分の心掛けや態度、また熱心や訓練によって、かなりの部分、これを何とかできると思っていることはないだろうか。実際に心が騒ぐことがあり、信仰心が熱くなったり冷たくなったり、急に熱心さが冷めたり、自分の思いや気分が影響するのは確かである。けれども、信仰がサタンにふるわれることがあっても、それ以上に力ある方が、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と、執り成しの祈りをささげて下さっている、これに勝る助けはない。この祈りの力は絶大である。全く真実なお方が、祈りによって支えて下さるのであって、シモンが信仰からふるい落とされることはなかった。決して有り得ない。彼は必ず守られるのであった。
「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンは、新たな使命、務めを託されている。弟子たちの互いの交わりの中で、弱さを担い合うこと、互いに励まし合い、支え合うこと、その尊い働きのためシモンは用いられるのである。挫折を経験した者でなければ決して分からない、痛みを知る者の思いやる心、その心を持つ者となるよう、シモンは祈られていた。信仰は、主イエスに祈られて保たれ、そして弱さを知る者たちの互いの励まし合い、互いの力づけによって、不思議にも保たれるのである。そして、その信仰が更に養われるのは、神の御言葉によってであり、その御言葉を心に蓄え、その教えに従って生きることが、何よりも大事なのである。教えられた通りに、私たちが生きているか、自分に問いつつ歩む者でありたい。私のために主イエスが祈っていて下さるのである。このお方が私たちの信仰を、完成へと導いて下さるのである。感謝をもって歩み続けようではないか。
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