ガラテヤ地方の諸教会に忍び込んだ「かき乱す者たち」(1:7)によって「福音の真理」(2:5)から離れて行こうとしている信徒たちに、パウロは、様々な点から問題点を示して、正しい道へと立ち返る説得を続けます。しかしついに、今日の箇所でパウロは“あなた方は、以前の幼稚な教えの信仰に逆戻りしている”と大変厳しい指摘をします。“信仰の危機とその克服”について教えられてまいりたいと思います。
1、私たちは、信仰が「逆戻り」しないように、信仰の危機に陥らないために、常に祈る必要があります。とくに、信仰が「きよくある」ために祈りたいのです。
先ほど触れましたように“信仰が「逆戻り」するという”というのは、信仰が、もとに立ち返ってしまうことでした。異邦人が中心のガラテヤの諸教会は、かき乱されて、パウロの教えたイエス様の福音かから離れて、以前の、割礼をうけ、律法を行なければ義とされないという教え、あるいは、神々や、諸々の霊力とか原理があるという「幼稚な教えに逆戻り」しつつあったのでした。
私たちは、このガラテヤ教会をさばくことが出来るでしょうか。私たちもまた信仰の危機に陥らないように信仰が「きよくある」ために祈る必要があります。
「きよくある」というのは、まことの神様だけを心において信じ、まことの神様だけに聴き従がって生きることです。地上の偶像の神々、諸々の霊力、原理などとは一切のかかわりを断っていることです。二心(ふたごころ)のない、純粋にイエス様とイエス様の父なる神と聖霊に満たされていることです。
私たちが「きよくある」ために祈る必要があるのは、私たちには、「きよくある」力がないからです。神様のみこころに耐えうる「きよさ」は、神様のお働き、神様の力によるのです。
私たちは、「きよくある」ことについてもまた神様のお取扱いに拠り頼まなければなりません。それは、ヨハネの福音書15章の初めにある通りです。こうあります。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(1−2節)
イエス様は、ご自分をぶどうの木にたとえています。しかも「まことのぶどうの木」と言われています。農夫の期待にこたえて、その枝々に立派なぶどうの実を結ばせるのが、まことのぶどうの木です。そのために農夫は、「刈り込み」をします。
まことのぶどうの木は、自分につながり、とどまっている枝々が刈り込まれることを受け入れます。そして立派な実を結ぶのです。
ヨハネは、「刈り込みをなさいます。」という表現に「きよくする」という言葉を用いています。神様は、私たちの二心に「刈り込みをされ」「きよくされ」、私たちの救いという実を結んで下さるのです。
“刈り込まれる”ことには、痛みを伴い、人間中心、自分本位の生き方を大きく変えられることになりますが、私たちが、神の子とされ、永遠のみ国を受け継ぐという、重い永遠の栄光(Uコリント4:17)という実を結ぶためには、これ以外の道はありません。
私たちは、信仰が「きよくある」ために、神様の「刈り込み」を受け入れていく必要があり、受け入れることが出来るようにたゆまず祈り続けてまいりたいのです。
2、次に、信仰が危機に陥らないために、自分がどういう状態からどのようにして救われてきたのかを再度しっかり見つめ、以前のあの生き方には決して戻れないことを覚えたいのです。
イエス様と出会い、イエス様を信じて救われるいきさつは、一人ひとりちがいますが、一人の人間として置かれている状態は、明らかに共通しています。
「伝道者の書」が語る人間のありようがそうではないでしょうか。こうあります。
「12:7ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。8空の空。伝道者は言う。すべては空。」
7節は、明らかに人間の創造のありようについて語っています。創世記2:7にある通りです。「 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」
人間は死んで骨だけになり、その骨はやがて、土に、土のちりに帰ります。人間のこの在り方は、クリスチャンでなくとも認めるところです。
人間に神の霊を受け止めるものが何もなければ、神の霊は、独りで神に帰ることになります。しかし、人間の側に神の霊(=神ご自身)を信じ、受け入れ、神の霊(=神ご自身)と関係を結ぶならば、その結ばれた関係は、霊とともに、霊を与えて下さった神に帰ると言っているのです。ですから、そのような神様との関係が結ばれていなければ、人間は、ちりに帰るだけの存在です。そのことを「空の空。すべては空」の存在であると伝道者は語っているのです。
伝道者は、「空の空。すべては空」と終始言い続けているのですが、それは、神の存在を、神の霊が生きて働いておられることを前提にして語っています。
ですから、伝道者は、私たちに選択を迫っているのです。「終りの日」(終末)の迎え方と今の生き方について、「空の空。すべては空」を選ぶのか、それとも神の霊(=神ご自身)を信じ、神の霊と関係を結んで、神の霊とともに神に帰るのか、とです。
私たちは、信仰が逆戻りするような危機にあるときには、神の霊に背を向けて「空の空。すべては空」を選択しようとしているのです。自分という存在が、初めから無かったのとなんら変わりがない、虚しい存在へと逆戻りすることを選択しているのです。
そればかりではなく、私たちがしっかり覚えなければならないことは、この選択は、神の霊(=神ご自身)を受け入れないことであるとともに、「空の空」に逆戻して、私たちの心の内にある偶像の奴隷となることを意味しています。土のちりで造られた人間は、自分の存在の意味について、生きることの意味、生き続けることに常に不安を覚え、自分以外の何ものかに拠り頼み、何ものかを拠り所としなければ決して生きることが出来ない存在だからです。
私たちキリスト者は、この神様と人間の現実をしっかりと見つめ、覚えたいのです。それは、「霊はこれを下さった神に帰る」ことを信じることが許されてある者だけが「ちりはもとあった地に帰る」ことを見つめ、覚えることが出来るからです。
私たちは、神の霊(=神ご自身)に背を向け、まことの神を忘れ、偶像の奴隷となって「空の空。すべては空」を深めすて、すべてを失いますか。私たちには出来ません。信仰の危機を神が下さった霊、聖霊に導かれて乗り越えたいのです。
3、最後に、私たちの信仰を守られる神様のお約束のみことばを心に蓄えたいのです。詩篇103:14−16とルカの福音書22:31,32を読みます。
「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」
私たちの成り立ちを知り、心に留めてくださっている生けるまことの神様により頼む歩みこそが、逆戻りを避ける道であることを確かにしたいと思います。
しかし、いかんともしがたく、逆戻りしそうなら、イエス様のペテロへの祈りを覚えましょう。ルカの福音書22:31,32です。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
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