最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちにパンと杯を与え、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。・・・あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われた。「わたしを覚えてこれを行いなさい」と命じられたのであった。その時は分からなくても、いずれ、はっきりその意味が分かる時が来ることを見越して、聖餐式が定められたのである。弟子たちの鈍さは、それに続く裏切りの予告を、自分のこととして聞けなかったことに表れていた。更に輪をかけるように、弟子たちの間で、「この中でだれが一番偉いだろうかという議論も起こった」のであった。(24節)
1、ヨハネの福音書では、最後の晩餐の席で、ユダの退席後に主イエスが大切な教えを弟子たちに語られたことが記されている。(※ヨハネ13:31)そのため、聖餐式の制定の場にユダがいたのか、いなかったのか、あれこれ考えられているが、緊張が続く中で、大切な教えを聞きながら、上の空でもあった弟子たちは、「だれが一番偉いのか」を論じ始めていた。裏切るのは一体だれか・・・から始まった詮索が、一番偉いのはだれかに発展するわけで、彼らの心の鈍さはそこに極まったかのようである。けれども弟子たちの関心は、その時が初めてではなかった。ガリラヤにいる時、そのことを論じていた。またヤコブとヨハネが、一人は右に、一人は左にと願ったことに、大いに腹を立てたことがあった。この過越の食事の席でも、彼らは席順が気になっていた。食事の準備がペテロとヨハネに命じられたことも、その議論を誘ったのかもしれない。だれが偉いのか、一体だれが一番なのか、そうした思いは人の心に、かくも根深いもののようである。(ルカ9:46、マルコ10:35ー41、マタイ20:20ー28)
2、主イエスは弟子たちに、きっぱりと言われた。異邦人の王たちが人々を支配し、人の上に権威を振るうとしても、「あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(25〜26節)主イエスに従う弟子たちは、どんなことがあっても、世の人々とは違っていること、その視点を見失ってはならない。弟子たちこそ「若い者」、また「仕える人」として、率先して働く若者となり、他の人に奉仕する者となりなさいと言われたのである。更に、「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」(27節)と語って、「仕える人」とは、食卓で「給仕する者」のようであること、心を低くして、人々に仕えることの尊さを教えられた。実際に主が、弟子たちに食卓で給仕しておられたようである。弟子たちの足を洗っただけでなく、食卓を回ってもおられたのか・・・。(「仕える人」「給仕する者」:「奉仕する者」または「執事」と訳される同じ言葉)
3、けれども主イエスの関心は、必ずしも弟子たちがよく仕えるかどうかにはなかったようである。ともすれば、人の関心は、事の善し悪しに流れ、仕えることにおいても、優劣を問いかねない。「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。・・・」(28〜30節)イエスは一転して、弟子たちがよくも「わたしについて来てくれた」と、賛辞とも感謝ともとれる言葉を発しておられる。弟子たちにとっての大事なこと、それは主に従うこと、試練の時にもついて行くことであった。それがどれだけ大変なことであったかを、主ご自身が分かっていると、そう語っておられるのである。だからこそ「あなたがたに王権を与えます」と約束し、天の御国で食卓に着くこと、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくことを約束して下さるのである。イエスに従う弟子たちは皆、これからとても大きな責任を担う者となると約束された。復活と昇天、そしてペンテコステ以後の新しい神の民の歩みも、ここで暗示されていた。
<結び> それにしても私たち人間は、人と競い合い、人に先んじていたいと、そればかり考えるようである。神を知らず、また神を恐れない人々は、ただそれだけが目当ての生き方を、ひたすら追い求めることになる。それしか生き甲斐を見出せないからであろうか。「だが、あなたがたは、それではいけません。」主イエスはそのように、はっきりと仰せられた。弟子たち、すなわち私たちも含めて、イエスをキリストと信じて従う者は、世の人々とは違う生き方が求められている。仕える人としての歩みであり、イエスご自身のお姿に倣う、給仕する者のように生きる歩みである。それは十字架の死にまで、ご自分の命を捨てて、ご自身の民を救おうとされた生き方である。
(ピリピ2:6ー8)
人と争い、競い合うのではなく、自分を捨て、他の人のために生きる者を、主は求めておられる。そのように生きるよう、私たち一人一人が主によって召されていることを、心に刻みたい。教会の中で、私たちはその生き方を訓練させていただいていること、その事実も心に留めたい。牧師も長老も、そして執事も、教会の役員は徹底的に仕える者であることを忘れないでいたい。教会に集う者は全て、イエス・キリストに倣う者であり、自分を低くして仕えることを学ばないなら、教会に連なる意味さえ見失うことになるからである。何とかして、本当の意味でキリストに倣う歩みが導かれるよう祈ろうではないか。そして福音の前進のため、私たちの教会、そして一人一人が用いられることを祈りたい。
東日本大震災、大津波、原発事故から一年が経過した。主イエス・キリストに倣う私たちの歩みが、仕える人、給仕する者としての歩みとなること、それが求められている。祈ること、具体的な働きをすること、それぞれに導かれることを、喜んで果たせるように。そして主のみ栄えが現されるように。
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