過越の食事の用意が整い、イエスと弟子たちの一行が「二階の大広間」の席に着いた。(14節)週の第五日、木曜日の夜のことと思われる。イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」(15〜16節)イエスご自身、ご自分の死をはっきりと意識され、その死の意味するところを弟子たちに告げたいと、切に願っておられたのである。しかも、その時は二度と来ないことも知っておられた。
1、主イエスが、この過越の食事において心に留めておられたこと、そして弟子たちに告げたかったこと、それは、過越の食事を通して人々が心に留め続けていたことが、今や終わりを迎えることであったと考えられる。過越の小羊が屠られ、その血のしるしにより裁きを免れ、出エジプトを果たした神の民の救いが、過越の祭りとそれに続く種なしパンの祝いによって、深く心に刻まれて来たことが、今後は、神の国において過越が成就することと切り離せなくなるというのである。それは17〜18節でも語られている。「過越の食事は、地上ではこれが最後です」と言われたかのようである。明らかに、神の民の救いが、神の国において完成することが近いこと、それ程にご自身の死が意味することの大きさを、ご自身が確信しておられたのである。事実、主イエスの十字架の死において、旧約聖書の時代から繰り返されてきた動物の犠牲は終わりを告げ、その象徴であった神殿の垂れ幕は裂けるのであった。(23:45)。
2、「最後の晩餐」と知られる過越の食事は、確かに、最後の過越の食事という意味を持っていた。けれども、弟子たちがそのことに気づいていたとは、とてもは思えない。そのような中で主イエスは、更に大切な教えを語られた。聖餐式を定められたことである。短いものの、それはパンと杯に関しての明快な教えであった。「それから、パンを取り、感謝してから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』」(19〜20節)一つのパンを取り、感謝の祈りをささげて後、裂いて、弟子たちに与えられたのは、ご自身の死が、弟子たち一人一人と深い関わりのあること、身代わりの死であることを示していた。それで「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」と言われた。同じように杯も、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と明言された。身体が裂かれるのも、血を流すのも、あなたがたを死と滅びから救い出すためのこと、その事実を覚えて、「これを行いなさい」と。
3、主イエスは明らかに、これからの十字架の死を意識して、その意味を弟子たちに告げておられた。肉が裂かれ、血を流す十字架の死、その死はあなたがたのための死であり、身代わりの死であることを。その死を覚えて、これを記念して行うものとして、「これを行いなさい」と命じられた。その記念となるのは、死だけでなく、三日目のよみがえりも含まれていた。神の国での過越の成就に触れておられるからである。(16節)そのように考えると、聖餐式が、教会によって今日までたゆまずに行われていることは、実に驚くべきことである。杯について、「あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われている。そこには、契約の締結には、動物の血が流される必要があったこと、血が契約の印となったことが言われている。それに加え、「わたしの血による新しい契約」と言い、わたしが流す血で、全く新しい契約を結ぶことを告げておられた。(※ヘブル9:11〜22)実に救いは神の一方的な恵みであり、神ご自身の側で、必要なことは全て備え、信じる者を救いへと招く、そのような「新しい契約」である。主は最後の晩餐の席で、弟子たちにこのことを伝え、この聖餐式を守り続けるよう命じておられたのである。
(※エレミヤ31:31〜34)
<結び> その場にイスカリオテのユダがまだ居たのか、居なかったのか、意見は分かれている。しかし、主は弟子たち皆に、警告を発しておられた。(21〜22節)新しい契約による救いに与るのは、ひたすら心を低くする者だけである。主が求めておられたのは、一人一人が自分を吟味すること、自分の心を自分で探ることであった。ところが弟子たちは、裏切る者は「いったいこの中のだれなのか」と、互いの心を探り始めた。(23節)主イエスの身代わりの死を誰よりも必要とするのは私である、という気づきこそが大事なことなのである。
聖餐式は、私たちの信仰の原点をいつも思い返し、私たちは主イエス・キリストの十字架の死によって罪から解き放たれ、救いの恵みに入れらたことを感謝する、大切な機会である。主イエスが血を流して下さったことによって、私たちは一方的な恵みに与っている。神から何か求められるなら、それは、だた信仰のみである。その点で新しい契約の恵みは計り知れない。裂かれたパンを共に食し、杯から共に飲むことによって、主イエス・キリストに連なる者の、一致と交わりを味わわせていただくのである。生ける真の神が私たちの神となられ、私たちはその神の民とされたことを感謝し続けることになる。そのようにして、天の御国に入るまで、この聖餐式を続けられるのは、私たちの特権であり、喜びであることを心に刻んで、この地上の生涯を歩み続けたい。
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