礼拝説教要旨(2012.02.19)
見 よ
(ヨシュア記8章 枝松律教師候補者)

序.7章において、アイを攻めたイスラエルの敗北を見ましたが、これはアカンの罪によって知らない内にイスラエルが主から離れてしまっていたからであり、主はそのアイでの敗北を通して、そんなイスラエルに気づきを与え、主に立ち返らせたのでした。ですが、アイでの敗北によって、主の御名とイスラエルの名が貶められてしまい、カナンの王達が攻め込んでくるのでは、という不安がヨシュア達には起きていました。この8章では、アイでの敗北すらも用いて勝利を与えた主の計画の深さと、そこでイスラエルに何が求められていたのかを見て生きたいと思います。

1.1節では、これからの歩みに対して不安な気持ちを抱えていたヨシュアに、主は「恐れてはならない。おののいてはならない。」と励まし、私が共にいるのだ、と再確認させています。その上で、アイへ攻め上ること、聖絶すること、伏兵を置くことが命じられています。ヨシュアはその言葉通り、戦う民全部と準備を行い、3万人の勇士を選び、伏兵として夜の内に派遣します(3節)。4〜8節には、伏兵たちに、アイの西方で留まり、「前と同じことだ」と言って、アイの人々が向かって出て来て、おびき出されたら、すぐにアイを攻め取り、火をつけることが主の言いつけ(8節)として命じられました。9〜13節は、少しややこしいのですが、どのように伏兵とヨシュア本隊が陣取ったかが記されており、伏兵たちが、アイの西で待機した後、ヨシュアたち本隊が、アイに向かって上っていき、伏兵たちに5千人の増援を送って、アイの北側、谷において陣を敷いたとあります。さてアイの王達は、ヨシュア達本隊に気づくと、5,6節のヨシュアの言葉どおり、「前と同じ」と考え、町から出て向かって来ましたが、ヨシュア達が逃げると、みなでヨシュアたちに追い討ちをかけ、町を開け放しにしてしまいました。しかし町がものけの空になるやいなや、主に命じられたヨシュアが、投げ槍をアイに差し出し(18節)、それを合図として、伏兵がすぐさま動き出し、アイの町を攻め取り火をかけました。また逃げていたヨシュア本隊も向き直って挟み撃ちにし、アイを聖絶し、すべて主の言葉通りの完全な勝利となりました。その後彼らは、エバル山へと向かいます。これは申命記27章において命じられていた、主のために祭壇を築き、全焼と和解のいけにえをささげ、律法の写しを石に書き写すためであり、民を祝福するために、祝福とのろいの律法の言葉が読まれるためでした。これは今後の戦いとカナンに入植していくにあたって、霊的備えが民たちに必要であったからであったと考えられます。

2.8章において二つのテーマがあります。一つは「主の言葉に聴き従うこと」です。8章では、主の命じられた言葉と、ヨシュアやイスラエルの人々の行動の記述とにヘブル語における単語の一致、つまり命令と行動の両方で、同じ単語が用いられているケースが多々あるのです。@1節の主の言葉と3節のヨシュアが戦いの準備をした記述。A7、8節における伏兵への指示と19節の伏兵たちの行動。B18節の主の命令と槍を差し伸ばしたヨシュア。これらの一致はまさにヨシュア達が、主の言いつけどおりに行ったことを強調しています。またエバル山での出来事も主に命じられていたことでした。もう一つは「主の深いご計画」です。それに関連して、「見る」という単語が、この8章でキーになっています。1節、8節、20節の「見よ」、21節「見て」の4つがありますが、実はヘブル語で見ると、14節の「気付く」、20節の「気付く」にも、先の4つと同じ「見る」という動詞が使われています。それでは何を「見る」のか?ですが、これをまさに「主の計画」でありました。1節で、イスラエルに「アイを与えた」ということが語られ、それを「見よ」といわれています。これは言外に、これから起こること、つまり主が計画なさったことを見よ、ということになります。また8節では伏兵について語られた後「見よ」と言われており、これは伏兵によって勝利を与えるという主の計画を「見よ」との命令なのではないでしょうか。さらに20節は、主の計画通りに実際に起こった事実を「見よ」と言われ、21節で、イスラエルは、実際にその目でその事実を「見て」います。他方、アイの王はイスラエル軍の存在を見て「気づき」ますが、伏兵の存在を見なかった。彼らは主の計画を見れなかった。イスラエルとアイ、これらは対照的です。
何より、このアイを与えるという主の計画には、7章のイスラエルの敗北が前提としてありました。他方、イスラエルは伏兵をおかずとも数的優位によって勝利できたはずなのですから、主が、先の敗北をも用いるためにあえて伏兵を置いたという点にも注目したいものです。というのも、ただ勝利しただけでは、イスラエルが負けたという汚名は何も晴らせません。ですがただの勝利ではなく、先の敗北すらも用いた勝利、しかも圧倒的な大勝は、周辺のカナンの王達に、先の敗北はわざとなのか?と思わせるのには、十分だったのではないでしょうか。カナンの王達は、やはりイスラエルは恐るべき神と共にあるのだ、そう思わせるには十分であったと考えられます。つまり主は、イスラエルの敗北によって傷つけられたご自身の御名とイスラエルの名を、その敗北をも用いる計り知れないご計画によって回復されたのです。ここには全知全能の神の偉大さを垣間見ることができます。

3.これらの二つのテーマは、主の計画の中にあって、イスラエルが、主に聴き従うこと、それもまず「見よ」との言葉に従うことが求められていたことを浮き彫りにしています。これは当然「信頼して見る」ことが必要でした。他方、これは主が共にいてくださるからこそ信頼できるという側面を持っています。1節での励ましは、主が共にいるからこその励ましでありましたが、その後「見よ」という命令が語られていることを見逃してはなりません。つまり「私が共にいるのだから、敵を恐れず、アイを与えるという私の計画を見よ」主はそのように語られているのです。そしてイスラエルは、主が共にいてくださる、その確信によって、相手を恐れずに、勝利を与えるという主の計画を信じて歩めたのです。彼らのその歩みが、主に聴き従う歩みだったことは言うまでもありません。主が共にいること、それは、イスラエルにとって何にも変えがたいものでありました。

結び.私達は、この8章から3つのことを覚えたい。
@主が私達に計画されていることを「見る」こと。私達は、キリストの十字架に現された主のご計画を知っています。私達を救い、私達の罪との戦いに勝利を与え、御国における完成へと導いてくださるという計画です。私達にはこの地上で罪との戦いがあります。しかし主は勝利を与えるという計画を私達に示してくださっているのです。
Aイスラエルのように、この計画を見て、信頼すること。私達は自らの弱さの故に、すぐに主の計画を疑ってしまいますし、すぐに罪に負けてしまいます。しかし計画の成就は、自分の力ではなく、主が成してくださるものであることを忘れてはなりません。ましてや主は、私達がもし罪に負けてしまっても、立ち返らせてくださる。そしてそれだけではなく、それすらも用いて御名の回復がなされたように、私達を勝利へと導いてくださることも出来る方なのです。もちろん自らの罪のいいわけにはなりませんが、このことは私たちにとって、大きな励ましではありませんか。
Bイスラエルのように、主の計画に信頼して、主の言葉に聴き従うものであること。ここで「従わなければならない」となりますと、律法主義になってしまいます。33、34節において、祝福とのろいの律法が読まれましたが、これは「民を祝福するためであった」と記されています。主の言葉こそが、民にとって祝福そのものなのです。私達は恵みによって神の国に入ることが許された者たちです。主の言葉を、苦役ではなく、祝福として受け取りたいものです。私達を勝利へと導いてくださるものなのですから。主の言葉だから、従いたい、そのように思えたら最高なのではないかと思います。と言っても困難を覚えることも多々あるのが現実ではあります。
ですが、だからこそ1節で「恐れてはならない。おののいてはならない。」といわれているように、自らの罪を恐れず、主が共にいてくださることを覚えたいのです。イスラエルは、共なる主がいたからこそ、主の言葉に聴き従えました。私達も、主が共にいてくださることを忘れずに歩みたいものです。主が共にいること、それこそが私達の勝利の確約です。私達をその神の深い計画へと導き、信じさせ、主の言葉に従わせることができるものなのですから。