22章以下、受難週の後半の出来事であるが、正確にはユダの裏切りの行動は、水曜日の間のことと思われる。イエスご自身のことについて、いずれの福音書も、水曜日は休まれたかのように取り立てた記述はなく、その日を境に、一層緊迫感を増すことになる。そして木曜日、「過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。」当時の暦で「ニサンの月の十四日」という日、その日の夕方に小羊をほふり、夜にはその肉を食べることになる。主イエスは、弟子たちをその過越の食事をする準備のために遣わそうとされた。遣わされたのは、ペテロとヨハネの二人であった。(7〜8節)
1、この後、食事の合間に、「彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(24節)と記されているが、その発端が暗示されている。十二人の中で、わざわざ「ペテロとヨハネ」を遣わすのは、その食事の大事さ、また事柄の重さを弟子たちに気づかせようと、主の心遣いがあったのかもしれない。そして弟子たちは、ペテロとヨハネは別格なのか、いや違うのか、自分たちはどうなのか、はなはだ心が揺れることになったのである。イエスご自身は、「わたしたちの過越の食事ができるように」と、その食事をするのは「わたしたち」であることを意識しておられた。過越の祭りの大切さを心に留め、その過越の食事を一同ですることを、殊の外願って、ペテロとヨハネの二人を遣わそうとされた。これまでも肝心な時には、やはりこの二人が特に役割を担っていたからである。事の重大さと、彼らが担う役割の重さに気づくようにと、主の意図は確かにあったと考えられる。
2、命じられた二人は、「どこに準備しましょうか」と、やや戸惑いを見せている。(9節)その食事のことは気になりながら、しかし監視の目が厳しい中で、十二人以上の集団である。一体どのようにして、食事の場所を確保し、そのための準備を整えることができるのか。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。・・・。」(10〜12節)主は、二人に丁寧な指示を与えられた。水がめを運んでいる男の人に会うこと、それはとても目立つことであって、その人に案内されるようについて行くように、「その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい」と告げ、更には「すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい」と言われた。主は何もかもお見通しで、全てを予見できておられたかのようである。二人が出かけると、「イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。」(13節)主イエスは、全てを見通しておられたのだろうか。そうではなく、事の全てを、ご自身で誰にも気づかれることなく、周到に準備しておられたのが真相でではないか。
3、どの福音書もほとんど触れていない、空白の一日があったようで、その一日、主はこの過越の食事をする場所のため、「その家の主人」と十分な打ち合わせをしておられたと考えられる。水がめを運ぶ男の人に会うことは、偶然ではなく、準備されていたのであろう。行き着いた家の主人には、「先生があなたに言っておられる」と告げて通じることであった。しかも「席が整っている二階の大広間を見せてくれます」と、予め頼んだ通りに、準備が進んでいる、そんな様子が浮かび上がる。主は、密かにこの「二階の大広間」を予約するかのように確定し、そこで過越の食事をしようとされたのに違いない。二階の間、または屋上の間と言われるこの広間は、主が弟子たちと共に、くつろいで食事をする広さがあった。敷物を敷いて、そこに身を横たえて食事をする、そのように準備された部屋であった。そしていざその席に着かれた時、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われた。(15節)弟子たちと共に過ごす特別な食事を、この「二階の大広間」ですること、これは特別の意味があったのである。過越の小羊として十字架で命を捨てること、またそれが身代わりの死であること等、ご自分の死を弟子たちが受け留められるように、その場所での経験が、今後の土台となるよう主は祈りを込めておられたのである。
<結び> 「二階の大広間」は、その時以降、弟子たちがエルサレムで集う大切な拠点となったようである。弟子たちが復活された主にお会いした場所(ヨハネ20:19)、またペンテコステの日まで、町の中で泊まった場所(使徒1:13)と同一と考えられる。そしてその家は、「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」(使徒12:12)に違いなく、弟子たちがエルサレムで集う場所、そこで祈りに専念する大事な場所、礼拝をささげる中心の場所となっていたのである。主イエスが、ご自分がこの世を去られた後のことも考え、弟子たちが、確かに弟子として歩み出す原点となる場所、力の源となる礼拝の拠点を示そうと、予め周到に準備を整えておられたと考えると、それは大きな驚きである。あの場所でのことを思い出すよう、そこで聞いたことを守るよう、そこでいただいた力に押し出されるよう、弟子たちを励まし続けられたのである。
私たちにとっての「二階の大広間」、それは何であろうか。主の日毎の礼拝の時であり、また月に一度の聖餐式の時がそれに当たると言える。教会に集まる全ての機会も、正しく「二階の大広間」なのではないか。主イエスが私たちのために備えて下さる場所と時、それは、主ご自身が私たちのために十字架で死なれたこと、その死によって私たちが生かされていることを覚え、感謝するための、他の何ものによっても代えられない、主との尊い交わりの場所であり、時である。主が備えて下さる場所と時に、私たちは、いつも招かれている。そこで教えられ、養われ、力を与えられ、そしてそこから遣わされるのである。主が用意して下さった場所と時、教会に集う毎に、そのことを心に留め、御国に入る日まで歩み続けたいものである。
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