礼拝説教要旨(2012.02.05)
ユダの裏切り
(ルカ 22:1~6)

 今年のイースター、4月8日に向け、しばらく休んでいたルカ福音書の受難週の記述に戻って、聖書を読み進むことにしたい。22章以下、緊迫感が増し加わり、主イエスの逮捕から十字架へと事態が一気に進む、受難週の後半、木曜日からの出来事である。週の前半の多くの時間、主イエスは宮で民衆に教えておられた。民の指導者たちはそれを苦々しく思い、時に反論したり、罠を仕掛けて立ち向かっていた。けれども、主はそれらをことごとく退けられた。指導者たちの怒りは爆発寸前となり、イエスを捕らえ、殺すための相談が本格化していた。けれども、今ひとつ前に進むことができなかった。過越の祭りが近づき、その祭りの間は騒ぎを起こさないようにと、自重したからである。

1、「さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。」(1~2節)「過越の祭り」は、モーセに率いられた「出エジプト」を記念する、大切な祭りであった。その祭りに引き続いて「種なしパンの祝い」が七日間続くことから、二つの祭りが一つの祭りのように語られている。過越の小羊を屠り、その小羊の血を家の入口の柱と鴨居に塗る。その家の中で小羊の肉を焼いて食べる。その夜の内に、神はエジプトの初子を全て打たれたが、イスラエルの人々の家は、入口に塗られた血を見て、神はそこを過ぎ越された。その神の大いなる救いを記念し、またその夜の慌ただしい出立を記念し、忘れることのないよう、二つの祭りは守り続けられていた。毎年、多くのユダヤ人たちが、この過越の祭りを祝うため上ってくるので、その祭りの間、エルサレムは騒然となるのであった。

2、イエスに対する憎しみは、殺意にまで上り詰めていたが、民の指導者たちは、民衆の暴動にまで広がることを懸念した。民衆の支持を失うことを恐れだけでなく、民衆を抑えられない責任を、ローマの官憲から問われることを恐れていた。彼らは、イエスを殺す良い方法を見つけられず、「祭りの間はいけない。民衆が騒ぎを起こすといけないから」と、祭りの終了を待つことで考えをまとめていた。(マルコ14:1~2)けれども、イエスを捕まえるためには、居所を通報するようにと命令を出しており、主ご自身もその命令を知った上で、エルサレム近郊を移動しておられたのである。(ヨハネ11:57)エルサレムを離れたり、また近づいたり、そして宮で一日過ごされたり、時に指導者たちの気持ちを逆撫でする大胆さも見せて・・・。その背後にあったのは、主イエスご自身が、エルサレムでの死、しかも十字架で過越の小羊として屠られる死を、はっきりと見据えておられたことである。主は何度も予告しておられた。その度に弟子たちは戸惑い、打ち消そうとした。けれども、主イエスは、過越の祭りが代々記念し続けて来たこと、そのことがこれから成就する・・・と、実に明快に意識しておられたのである。

3、ところが、事態は今、果たしてその通りに進むのか、膠着しそうでもあった。主ご自身は、覚悟の上の行動であったものの、祭司長や律法学者たちは、「祭りの間はいけない」と自重したからである。そのような時、イスカリオテのユダが行動を起こしたのであった。「・・・ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。・・・」(3~5節)ユダの裏切りについて、聖書は「サタンが入った」と記している。ほぼ同じことを、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」とも記している。(ヨハネ13:2、27) ユダは、心をサタンに奪われたのか、自分からサタンに心を明け渡したのか、どちらであろうか。直接的な原因があったのに違いなかった。その一つは、金入れを預かり、その出し入れを任されていながら、不正を行っていた事実が関連していたと暗示されている。(ヨハネ12:6、13:29)金銭欲を抑え切れない、その心の隙に、イエスを売り渡す思いを吹き込まれたことになる。お金を約束された彼は、以後、「群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらう」ことになった。(6節)

<結び> ユダの裏切りの事実は、何とも痛ましく、悲しい出来事である。何故、どうして・・・、ユダ一人に裏切りの罪を被せていいのか・・・。「サタンが入った」と言われることは、拒めないことだったのか。そうであるなら、私たちもまた、同じような危険に晒されているのか、疑問は尽きない。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。・・・」と、ペテロも警告を発している。(ペテロ第一5:8~9)ペテロ自身が、サタンにふるわれる経験をしたからである。けれども、主イエスにしっかり結びつき、主に従っているかどうか、そのことが一番大事なことである。

 ユダに関しては、「十二弟子のひとりで」と言われていても、本当に弟子となっていたかどうか、それがカギのようである。ここでは「十二の数の中にいたひとり」と言われていて、弟子としての彼の立場に疑問符がつけれている。私たちが、ただ教会に属しているだけで安心しているなら、注意しなさいと言われているようである。主イエス・キリストにしっかり結びつき、その教えに聞き従うことが求められている。そして、サタンの唆しに心を許さないこと、それが大事である。

 それは決して難しいことではない。イエスの側に立つなら、主イエスご自身が私たちを守って下さるから。私たちの心には、主イエス・キリストが住んでおられる。(ガラテヤ2:20)そうである限り、サタンに付け入られることなど、有り得ないことを覚えておきたい。サタンが入る余地はないと。私たちは、主イエスにあって、圧倒的な勝利を約束されているのである。(ローマ8:33~39)