礼拝説教要旨(2012.01.29)
喜び・祈り・感謝
(テサロニケ第一 5:16〜18)

 2012年、私たちには真の拠り所があること、どんな時にも必ず助けの手を差し伸べて下さる方、生きて働かれる神がおられると、詩篇の言葉に励まされて歩み始めた。第二週には、2011年度の主題聖句の一つに耳を傾けた。今朝はもう一つの主題聖句に耳を傾けたい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」私たちの日々の歩みが、神に喜ばれるものとなっているのか、自らを省み、人の目には不思議な「神の力」によって生きる者と、確かにならせていただきたいからである。

1、私たちの地上の日々は、良いことも悪いことも同時進行・・・と、つくづくそのように思うことがある。個人個人で考えると、いやそうでもない・・・と思えるが、家族、地域、社会と枠を広げれば広げる程、全ては同時進行である。神の前には、一人一人が何よりも尊く、大事であるが、しかし、人は一人では生きて行けないこと、これは確かな事実である。私たちは、常に神の前での自分を意識するとともに、神の民としての自分、すなわち、神の民の一員としての自分を意識することを忘れてはならない。もちろん自分が住む、その社会の一員であることも忘れてはならない。けれども、私たちはキリストの教会の一員であること、キリストのからだの一部分である自分のことを、いつも覚えているのかどうか、それは殊の外大事である。神の前には、自分一人で立たねばならなず、神と自分との間には、ただ一人キリストが仲介者としておられるだけであっても、神の前に神の民として共に進み出ること、そのように神は私たちを招いておられるのである。

2、主イエスが弟子たちに教えて下さった祈り、「主の祈り」は、「私たちの父よ」と祈るように教えている。そこに大切な視点がある。一貫して「私たち」と、一人称複数で祈るよう、主イエスは教えられた。教会の祈り、或いは神の民として共に祈るように。もちろん聖書の教えの一つ一つは、一人一人が神の前に立って聞くべきものである。その人自身が、神によって心を探られ、自らが聞き従うこと、それが出発点である。けれども、民が共に聞き従うことも求められていた。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。・・・」との勧めには、そのような意味合いも、確かに込められている。いやむしろ、教会が共に聞くべき教えだったとも理解できる。一人個人の生活において、何が何でも喜びなさい・・・と言われるなら、そのようなことには無理があるのではないか・・・。それが神を信じない人々の反応であろう。神を信じていても戸惑いは隠せない。しかし、悲しむ人と共に喜ぶ人がそこにいるなら、悲しむ人の周りに、必ず慰めと励ましの言葉が生まれるに違いない。弱っている人がいるなら、それを助ける人がそこに起こされるに違いないのである。

3、使徒パウロは、テサロニケの教会の人々を思い返し、彼らのためにいつも祈り、感謝をささげていた。彼らが、多くの苦難の中にあっても、喜びをもって歩んでいる事実を知り、大いに喜んでいた。そのまま、益々信仰に信仰を増し加える歩みをして欲しいと、心から願って手紙を書き送っていた。主イエスが再び来られる日を待ち望みつつ・・・と。主の再臨は、救いの完成の日であるとしても、今、地上にあって生きる日々をいささかも疎かにしないように、それが心からの願いであった。その願いを込め、教会の交わり、すなわち神の民の互いの交わりを心に留めるようにとの勧めが、最後の章に集中している。「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」(5:11)「お互いの間に平和を保ちなさい。」(13節)「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」(15節)そして「いつも喜んでいなさい。・・・」と続くのである。

 誰でも、自分一人の問題としてより、互いに他を思いやり、特に弱さを担い合ってこそ、共に喜びを見出し、祈り続けることができるのではないか。一人では気づかない、確かな神の恵みに触れて、すべての事に感謝することが導かれるのではないか。神は私たち一人一人にも、実はそのような経験をするようにと、教会の交わりに入れて下さっているのである。

<結び> 私たちの歩みが、やはり教会と結びついて、神の民の交わりの中で営まれることの大事さを、その尊さを心に刻みたい。喜びも祈りも、そして感謝も、ただ自分一人の事柄ではないこと、また、いつも、絶えず、そして、すべての事と言われることも、一人、自分だけに係わる事柄ではなく、互いの経験を踏まえ、共に神を見上げて導かれるべきことと、そのように理解したい。主の日毎に礼拝をささげることを喜び、また週日に顔を合わせて共に祈ること、それがどんなに大きな喜びであるかを、私たちはもっともっと心に留めるように導かれたい。それぞれが経験した事柄を分かち合って、神に感謝すること、そのような機会が増し加えられることを願いたい。

 私たちには、真の拠り所なる神がおられる。その神が共におられるので、私たちは決して行き詰まることはない。人の目にはみすぼらしく、打ちのめされたかのように見えても、それでも神に支えられる者の勝利は、必ず約束されている。神が共におられることを信じて、日々を過ごすこと、自分の努めを果たすこと、そのような確かな歩みを導かれようではないか。神は必ず共にいて下さるから。

 パウロは、「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」と、ガラテヤの聖徒たちに語った。(ガラテヤ4:19)私たち一人一人も、私たちの内にキリストが形造られる、そのような歩みをしている。その事実を自分の内に見出そうとするのか、それとも他の人の内に見出そうとするのか。もし私たちが自分の内にキリストが形造られるのを見出そうとするなら、きっと問題が生じるに違いない。しかし、互いに他の人の内にキリストが形造られるのを見出すことに重きを置けば、きっと喜びを共有するのは容易となるであろう。教会の交わりには、そのような視点が大切を思われる。「神の力」によって歩む不思議は、教会の交わりの中にあることを感謝し、日々歩み続けることが導かれように!