パウロのガラテヤ教会に対する福音の真理の勧めが続きます。“人が神様に義とされ、救われるのは、イエス様を信じる信仰によるのであり、律法を行うことに拠るのではない”という勧めです。
今回は、アブラハムが受けた祝福の相続人とはどういう人か。そして、その結論である6、7節に至る道筋から教えられてまいりたいと思います。
1、まず、私たちは「神の子」であることの理解と自覚をどれだけ持って生きているかを省みたいのです。
パウロは、すでに3:26の箇所で「あなたがたは、みなキリスト・イエスにある信仰によって、神の子どもです。」と言っていますが、私たちが神の子となることが出来たのは、イエス様の十字架によって律法の下から贖っていただいたからだと言っています(4,5節)。律法は、私たちの罪をあばき、私たちの罪を追及して止まないものです。
パウロはここで神の前には罪人である人間が、イエス様を信じることによって救われることを「神の子の身分を受ける」(5節b)と言ったのです。私たちが救われることの真実を「神の子」というさらに祝福に満ちた言葉に言い表しているのです。
さらに、「神の子」という言い方は、神の国に、神とともにある者、神の国を受け継ぐ者という意味を含んでいると思うのです。先ほど“招きの詞”で読んでいただきましたように、エペソ書のはじめのところでパウロは、こう言っています。
「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(1:5)。さらに、11節では、ご自分の子とされた者についてその祝福をこう証しています。
「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。」
神の子であるイエス様を信じ、イエス様としっかりと一つに結び付けられ、私たちがイエス様の中にあり、イエス様もまた私たちの中にいてくださることによって、私たちも神の子とされているのです。そして、神の子として、神の国に招き入れられ、神の国を受け継ぐ者とされています。やがてではなく、イエス様を信じるとき「今すでに神の子なのです。」(Tヨハネ3:2)
私たちは、キリスト者であることは、神の子であることを覚え、神の子としての自分を見つめ直し、新しいこの年、神の子として生きることを願い求めていきたいのです。
2、次に、「御子の御霊」という言葉に心に留め、励ましと平安を受けたいのです。
先に触れましたように、6節の「御子の御霊」は、イエス様を信じて神の子とされた者に、神様がそのこころに遣わされた方であり、この「御子の御霊」ご自身が、私たちの心の中にあって神様を「アバ、父」と呼ばれるのです(6節b)。ですから、私たちは、私たちのこころに与えられた「御子の御霊」とともに「アバ、父よ。」と呼ぶことができるのです。
ところが、パウロは、ローマ書でこうも言っています。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、・・・・子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(8:14,15b)。
パウロは、ここで神の御霊は、私たちを子としてくださる御霊であり、それ故に御霊を受けた私たちはこの御霊によって、「アバ、父」と呼ぶ者とされていると言っています。
さらにパウロは、次の8:16でこう言います。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」。すなわち、私たちに与えられている御霊は、私たちが神の子であることをあかしてくださるのだと言っています。(エペソ1:13,14参照)
「御子の御霊」をローマ書をも含めて考えると、このようになるでしょうか。「御子の御霊」とは、私たちを神の子としてくださる御霊であり、神様を「アバ、父よ。」と呼ことが出来る霊です。そして私たちが、神の子であることをあかし(証言し)、保証する霊です。そして当然のことですが、私たちの「アバ、父よ。」という呼び声に、叫びに、父なる神としての応答をしてくださり、みことばにおいて約束してくださっていることを真実をもって成し遂げてくださいます。
私たちには、今、「御子の御霊」が、心に注がれ、与えられていることを覚えて、神の子として生かされていることを確かなものとされ、「神の子」の平安を得るとともに、この世における「神の子」としての使命を覚えたいと思います。
3、最後に、まことの神様を「アバ、父よ。」と呼ぶことが許されている私たちですが、日々父なる神様と親しい交わりが、またみこころにかなった交わりがされているか、省みたいのです。
先ほどふれましたように、ゲッセマネの園で神様に「アバ、父よ。」と呼びかけられて祈られたイエス様に、私たちは、父なる神様と私たちとの交わりの完全なお手本を見ることが出来ます(マルコ14:36)。
イエス様の「アバ、父よ。」という叫びは、人の罪を負えば、義なる神の呪いの十字架を負うことになる、負わなければ、誰が人の罪を贖うのか。神の正しさ(義)と人の罪との間に引き裂かれる者の叫びであると思います。しかし、イエス様は、「アバ」なる神様のみこころにゆだねられます。そして、神様は、このイエス様をよみがえらされたのでした。
イエス様は、ゲッセマネの祈りを通して、地上の父が、子どもの叫びにすぐに駆け寄って、助けに来てくれるように、イエス様を信じる者は、死の苦しみの中でも神の子として「アバ、父よ。」と叫んで、父なる神様を避け所とし、みこころに従い、そしてまことのいのちを得ることが出来ることをご自身が示され、教えておられるのです。
私たちは、イエス様のような十字架を負うことはありませんが、自分の家族、隣人の、そして教会の方々の大小の重荷を負い合う日々です。しかし、私たちは、神様を「アバ、父」と呼ぶことが許されていますから負い合うことが出来ます。
この幸いを感謝しつつ、祈りにおいて、みことばによる神様との交わりにおいて、とりなしにおいて日々に生かして、生きたいと願う者です。
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