礼拝説教要旨(2012.01.08)
神の愚かさは人よりも賢く
(コリント第一 1:18〜31)

 2012年、最初の礼拝において、私たちには真の拠り所があること、悩む時、苦しむ時に、必ず助けの手を差し伸べて下さる、生きて働いている神がおられることを、詩篇の言葉によって覚えた。この年も、この神を仰いで歩むよう思いを新たにした。今朝はそれに加え、2011年度の主題聖句を思い返し、私たちが拠り所としている、大切な「みことば」の一つに耳を傾けてみたい。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」この言葉も、繰り返し私たちに問い掛けている。この世にあって、あなたがたは、何を拠り所としているのか、いつも十字架を見上げているのか、この世の富や知恵に惑わされていることはないか・・・と。

1、2012年を迎えた世界は、実に多様な事柄が関連しながら、今後の波乱が大いに予想される。政治も経済も、その他諸々、益々混沌とするのではないか、事態が好転するとは思えない、そんな様相である。北朝鮮の政治が安定するのかを始め、大統領選挙を控えた国が複数あり、また、どこの国も財政が破綻しないようにと懸命である。日本も、増税をしなければ、最早破綻するしかない・・・と、現政権は消費税率のアップに突き進んでいる。現実の人々の生活は、失業者が増え、生活がままならなくなり、病に苦しむ人、心を痛め命を絶とうとする人が、益々増える一方・・・と、危機感が膨らんでいる。昨年末に、原発事故の「収束」が発表されたものの、その事故の実態は未だに深刻である。現場では尚も必死の作業が続き、「収束」などはとても言えないことを、多くの人が実感している。そんな時代に、私たちは今生きている、いや生かされている。真実を見分ける目、聞き分ける耳が必要となるのである。

2、このような時代、このような社会にあって、私たちは、神の民、キリストを救い主と信じる民として、世に送り出されいる。この世にあって、「地の塩」また「世の光」として生きるようにと、遣わされている。キリストを信じる者、キリストに仕え、そして人々にも仕える者として、私たちは生かされているのである。この使命に生きるには、何よりも「神の力」に頼る他ない。そしてその力の源は、「十字架のことば」にのみある。(18節)キリストが十字架で死なれたこと、そして三日目によみがえられたこと、この十字架と復活に現された神の愛、救いの恵みが、私たちを世に送り出してくれるのである。私たちがこの救いの恵みを喜び、感謝して生きることによって、私たちに託された使命は、必ずや果たされるのである。しかるに、教会の歴史は多くの過ちを犯し、神の力に頼ることをせず、人の力、人の知恵、ひいてはこの世の富にまで手を伸ばし、自分の力を誇示する、そんな過ちさえ犯したのである。

3、紀元一世紀において、教会は早々と人の知恵を誇り、神よりも人の賢さを頼る、そのような過ちを犯していた。コリントの教会において、パウロにつくか、アポロにつくか、いやケパにつくのか、それともキリストにつくのかと、どの権威につくかと争いを始めていた。十字架の出来事の大事さを見失い、教会もこの世の人の集まりとなっていた。パウロは懸命に人々をたしなめている。十字架のキリストを救い主と信じる信仰の不思議さ、この世で見捨てられ、退けられた者を立たせる神の御業の不思議、これこそがキリストの十字架の死と、死からの復活ではないかと説いた。自分の知恵や知識を誇る者は、決してキリストの元に辿り着くことはなかったからである。どんな学者も、議論家も決して十字架のキリストを仰ぐことはなかった。ごく普通の人々、ガリラヤの漁師や取税人たち、この世で決して「知者」とは言われなかった人々が、十字架の出来事の前にひれ伏した。この世で「賢い」とされる人々は、十字架の前を通り過ぎ、他方「愚か」とされている人々が、喜んで十字架のキリストに拠り頼んだのである。「・・・神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。・・・」(19〜25節)この事実は、私たちがどのような思いでキリストを信じ、キリストに従っているかを、厳しく問い質している。

<結び> キリストの十字架のことば、十字架に付けられたイエスを、救い主キリストと信じるように招く「福音」は、「無学な、普通の人」たちによって、全世界に広められた。(使徒4:13)この福音を担う教会は、いつの時代も、またどこの国にあっても、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」との確信によって、歩むことが求められている。常に謙虚さをもって、必ず仕える心をもって、「十字架のことば」を証しすること、それが私たちの務めである。私たちを救うために、十字架で命を捨てて下さった方、この方に私たちは仕え、私たちも全てを捨てても従いたい・・・、そう願ったのである。私たちは、自分が何者であり、何故に今、喜びが与えられているのか、よくよく考えるように促されている。(26〜31節)

 私たち人間の本性は、年を重ねる程に心が穏やかになるのか、それとも心が固くなるのか、とても気になることがある。私たちの信仰は果たしてどうであろう。パウロは、信仰の「成熟」という側面を教えてくれる。信仰において大人になるように・・・と。(エペソ4:13〜16)ところが自分のことを省みると、「成熟」を、自分勝手に何でも分かったかのように捉え、誇らしげにしているのかもしれない。私たちは、神の計り知れない恵みを、果たして理解できるのだろうか。神の恵みも神の愛も、人知を超えた計り知れない恵みであり、愛である。「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのか理解する力」など、到底およびも着かない程に、無限で永遠である。それでも分かった気になって、他の人の鈍さを指摘し、自分を誇る過ちを犯すことがある。(エペソ3:14〜21)

 私たちは、年を重ねる毎に、いよいよ謙ることを学び、益々神に仕え、人に仕える者と成らせていただきたいものである。生まれながらにして罪ある私たちは、自分の力で自分を変えることは不可能である。自分の決意や熱心をもってしても、神の愛に生きるなど、とてもできない。ただ神の恵みにより、神の力によって変えられ、導かれ、生かされることによって、私たちは、神の民として、またキリストに倣う者として歩むことができるのである。その恵みを喜び、そのように私たちを導いて下さる主に感謝し、その主を誇ること、それが私たちの努めと心したい。