激動する2011年が去り、新しい年、主の2012年を迎えた。多くの人が、年が改まるのを期して、思いを新たにするようである。もし私たちが主の前に、何かを思い、心に期すことがあるとしたら、それは何であろう。或いは、何を心に留めるのが大事と考えるだろうか。昨年は3月の大震災と、それに続く原発事故が、人間の傲りを打ち砕き、目に見えるものがどんなにか脆く、また儚いかを思い知らされた。だからこそと言うべきであろう。私たちは何を拠り所としているのか、果たして拠り所があるのか、何を拠り所とできるのか等々、この年の始めに問われている思いがする。
1、2008年の5月、読売新聞が「日本人の宗教意識」について調査したところ、宗教を信じている人:26%、信じていない人:72%、との答えが出た。ところが、宗教心が薄いと思わない人:49%、薄いと思う人:45%。先祖を敬う気持ちを持っている人:94%。自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるという人:56%。そして、死んだ人の魂についての考え方は、生まれ変わる:30%、別の世界に行く:24%、消滅する:18%になるという答えが出ている。多くの人が「無神論」を振りかざす割には、宗教と無縁にはなれず、日頃から「祈り」を口にし、また言葉にしないまでも、「祈りの心」を大切にしようとする、そんな日本の社会の姿が思い浮かぶ。全ての人が、自分の知恵や知識の及ばないことがある、自分の力には限りあると、実は知っているのではないのだろうか。そのように思うことがある。ただそう認めたくないので、強がっているに過ぎないのでは・・・と。
2、その証拠に・・・と言いたい位に、元旦の初詣は年々盛んになる。所沢の町でも、銀座通りの街灯には、初詣を促す旗がひらめいている。新聞の広告も益々多くなり、マスコミの報道も熱心である。宗教心がなくても初詣なのか、一年に一度、心を静めさえしたらそれでよいのか・・・。私たちは、そのような世の習慣とは違う意味で、今朝の礼拝に集っている筈である。救い主キリストの復活を記念する週の初めの日、キリストを通して、生ける真の神に礼拝をささげている。その礼拝が、この一年も週毎にささげられる。一年を通じて、共に心に留めたいこと、それは何であろう。私たちには、真の拠り所である神がおられること、その確かな事実を心に留めたい。ぼんやりと礼拝に集うのではなく、私たちには信ずべきお方がおられる。その方こそ、何事にも揺らぐことのない神である。私たちは、その方にあって何者をも恐れない、と感謝をもって礼拝をささげ続けることを導かれたい。
3、「都上りの歌。ダビデによる」と表題のついたこの詩篇は、神の民イスラエルの安全と平和は、一体誰の守りによるのか、と問いかけている。民が今生かされているのは、神が守り、支え、導いて下さっているから、と気づくこと、感謝すること、それが神の民に求められている。ところが、私たちを含め、人の心は甚だ鈍いのも事実である。私たちを襲う苦難や災いは、敵対する人からのものであったり、自然の災害であったり多種多様である。そして、そのような辛い経験をするまで、神の守りに気づかないでいたりしている。そのため危機が、私たちを「生きたまま、のみこむ」ような激しさで迫り、人々の怒りが降り注ぐ時、荒れ狂う大水に押し流されるかのように、私たちは試練の渦に巻き込まれてしまう。その時、私たちは全く無力である。けれども神は、そのような私たちを決してお見捨てにはならない。必ず、助けの手を差し伸べて下さる。「仕掛けられたわな」に捕らえられていたなら、その「わな」を破って助けて下さる。私たちの神、主はそのようなお方である。神は私たちの味方である。その確かな守りを知ることに勝る力は、どこにもない。「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」(1〜8節、※94:14、17)
<結び> 詩篇には、他にも「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(46:1)と歌われている。また、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」(50:15)と約束されている。更に、「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(62:8)「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。」(68:19〜20)このような励ましの言葉、慰めの言葉、導きの言葉が満ちている。そして神に頼り、神によって導かれた、信仰の先達たちの姿が、鮮やかに記されている。正しく「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(119:105)もし私たちが、聖書に聞き従い、詩篇の言葉を心に蓄えているなら、折々に、その「みことば」を思い返し、生ける真の神こそ、私の力、私の避け所ですと、賛美と感謝をささげることが導かれる。
更にイエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たち罪ある者の救いが、一層鮮やかに示されたことにより、また祈りによって神を仰ぐことが許されていることにより、神は常に最善を成し下さることを信じ切ることができるのである。使徒パウロは、その幸いを「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と告白している。(ローマ8:31)
真の拠り所のある日々を、本当の助けが用意されている避け所で憩う、そのような人生を歩みたいと心から願う。この年も、何があっても狼狽えない歩みをさせていただきたい。一人一人に神は目を注いでいて下さる。そのことを忘れず、互いに祈り合うこと、支え合うことを目指したい。崩れない、また消え去ることのない拠り所である神が、私たちにはおられるからである。
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