礼拝説教要旨(2011.12.25) =クリスマス礼拝=
救い主のお生まれ
(ルカ 2:1〜21)

 ガリラヤの町ナザレに住んでいた処女マリヤ、このマリヤに御使いが遣わされ、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。・・・」と告げた。戸惑うばかりの彼女は、やがて御使いのことばを聞いて、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、主に身を任せることができた。夫のヨセフも、苦悩の日を過ごした後、夢に現れた御使いを通して、恐れずに妻を迎えるよう命じられ、その通りに従うことが導かれた。このようにして、幼子イエスの誕生の準備は、着々と整えられていた。

1、神が預言者を通して約束されたことが、一つ一つ成就するように着実に進んでいた。処女がみごもって男の子を産むことに加えて、ダビデの家系であることが、不思議な形で実現へと向かっていた。神が選んでおられたマリヤとヨセフであったが、実際には、ごく普通に生活する二人である。若い夫婦には過重となる、そんな経験もあったであろう。胎に宿る幼子が、健やかに育つのかどうか、自分たちの日々の生活が順調であるかどうか、心配事は山ほどにあったに違いない。神が貧しくなり、低くなって人となられること、そこには、私たちの思いを超えたものがある。幼子のいのちが危険にさらされる事実、人がこの世に生まれ出る神秘の部分を、幼子は割引なしに通っていたのである。

 恐らく最初の安定期を迎えるまで、マリヤはエリサベツの家で過ごしたのであった。その後、家に帰り、ヨセフとの関係が整うまで、やや不安な時期を過ごしたと想像できる。けれども、神が御使いを通してヨセフに現れて下さったことによって、二人は心を合わせて神に従う、そんな日々を過ごすことができた。幼子の誕生を待ち望む、ウキウキする余裕もあったに違いない。ところが、その二人に降りかかったのが、住民登録をせよという勅令である。ナザレからベツレヘムへと、二人は旅立つことを強いられた。臨月を控えた時期は、普通は大事を取るのに違いなかった。けれども、二人は一緒に出掛けた。二人とも、自分たちの役割を十分に理解してのことと思われる。(1〜5節)

2、このベツレヘム行きを、神は全て支配しておられた。メシヤがベツレヘムから出ること、それを神は約束しておられた。(ミカ5:2)二人はそのために旅に出たわけではなく、皇帝アウグストの勅令に翻弄されていた。けれども、そのことさえ、神の御手の中にあった。彼らがベツレヘムにいる間に、「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(6〜7節)二人には、やがて子どもが生まれることは分かっていた。そのための準備もしていた。けれども、布にくるんだ幼子を寝かせたのは、飼葉おけであった。辛く、悲しくもあったのだろうか。しかし、安堵感があったのに違いない。幼子の寝顔を見て、喜びと感謝に溢れたことであろう。

 この幼子の誕生を最初に知らされたのが、近くの野原にいた羊飼いたちである。「・・・きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。・・・」(8〜12節)神は、その時、何故か羊飼いたちを選び、彼らに、救い主の誕生を知らせようとされた。「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」私たちに分かることは、彼らにこそ救い主が必要なことを、神はご存知であったということである。神は、この地上の生活において満ち足りている者、また何不自由なく生活している者にではなく、貧しさや卑しさ、そして本当の意味で不足を知っている者にこそ、近づき、手を差し伸べて下さる。彼らは、神が自分たちに近づき、喜びの知らせを告げて下さったことを、しっかりと受け止めた。御使いの賛美も、彼らの心を開かせることになっていたのである。(13〜14節)

3、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と急いだ。途中であきらめることなく、捜し当てるまで、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」を尋ねた。捜し当てた時の喜びは、如何ばかりであったろうか。彼らが、マリヤとヨセフに、幼子について告げられたことを知らせた、その喜びの息づかい、そして、聞かされた者の驚きの様子が思い浮かぶ。(15〜18節)その場にいた者がみな、神が事を成さることの不思議、また喜びの場に招いて下さる事実を、しっかりと覚えさせられていた。マリヤは、「これらのことすべてを心に納めて、思いを巡らしていた。」そして羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」彼らの心の中には、御使いの知らせの確かさに対する、驚きと感謝、また喜びが満ちていたのである。(19〜20節)

マリヤとヨセフが、確かに神に従っていたことは、幼子を「イエス」と名付けたことに表れている。(21節)マリヤは、「・・・男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」と命じられていた。ヨセフも「その名をイエスとつけなさい」と命じられていた。そして、生まれて八日目に、「幼子はイエスという名で呼ばれることになった。」胎内に宿る前に御使いがつけた名を、二人はしっかり心に留めていたからである。「主は救い」、あるいは「主は救い給う」という意味の名を付けることによって、彼らが、神である主にこそ拠り頼む信仰を、はっきりと言い表していた。神に全幅の信頼を寄せる信仰、主こそ望みであり助けであることを、心から言い表していたことになる。

<結び> この幼子イエスの誕生は、「救い主のお生まれ」であった。誰のための「救い主」なのか。「あなたがたのために」と告げられている。その「あなたがた」とは誰か。羊飼いたちは、「主が私たちに知らせてくださったこの出来事」と、「救い主」は「私たちのため」にお生まれになった、と受け留めていた。その受け留め方こそ、毎年毎年、クリスマスを祝う私たちが、クリスマスをどの様に祝うのか、大切な視点である。私たちは、毎年「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」との大切な知らせを聞いている。その知らせを聞き逃してはいなか。確かに聞いているだろうか。「私のため」また「私たちのため」に救い主がお生まれになったことを、大喜びするクリスマスこそ、本当のクリスマスである。

 羊飼いたちのように、私には救いが必要と知り、また私には助けが必要と認めて、幼子イエスの前にひれ伏し、ぬかずくことを導かれようではないか。権威を振りかざす者に対しては、なかなか素直になれない私たちである。だからこそであろう。神は幼子として救い主キリストを遣わし、私たちが心を開き易いように、そっと近づいて下さったのである。飼葉おけに寝ておられるみどりご、幼子の姿をもって。クリスマスのこの時に、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を、更に一歩進ませていただきたいものである。私たち一人一人に、神は救いへの手を差し伸べておられるからである。