礼拝説教要旨(2011.12.18)
命じられたとおりに
(マタイ 1:18〜25)

 最初のクリスマスの出来事には幾つもの不思議がある。その一つがマリヤへのみ使いの告知であった。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。・・・」と告げられ、戸惑うしかなかったマリヤであった。けれども、聖霊が臨むこと、神には不可能はないことを告げられた時、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、マリヤは、潔く主に身を任せた。この事実を、夫のヨセフは、まだ何も知らされないままであった。マタイの福音書は、そのヨセフの立場から、幼子イエスの誕生の出来事を記している。

1、「イエス・キリストの誕生は次のようであった。・・・」婚約し、夫婦となることに決まっていたマリヤとヨセフ、その二人の間に、自分たちの知恵や知識、また力をもっても、どうにもならない事態が生じていた。「ふたりがまだいっしょにならないうちに」、マリヤが身重になったことが分かったのである。彼女のみごもりは「聖霊によって」であったが、その事実をヨセフは知らされることなく、悶々とした日々を過ごしていた。彼の悩みや苦しみ、そして、心の痛みは大きかった筈である。どれ位の日を過ごしたのであろうか。ようやく心を決めることができた。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせよう」と。(18〜19節)

 ヨセフが「正しい人」であったとは、当時の社会で、聖書の教えに聞き従い、律法が定めることを忠実に行い、真に敬虔な信仰に生きていたことを言い表している。ザカリヤとエリサベツについて、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた」(ルカ1:6)と言われているのと同じである。(※シメオン:ルカ2:25)心から神を信じる信仰が、その生活態度にも表れている、そんな人であった。だからこそと言うべきであろう。彼は、マリヤが自分の知らない間に身重になったことに、打ちのめされる程の衝撃を受けたのである。どう考え、どう対処すべきか、簡単に答えが見つかるわけではなかったが、辿り着いたのが「内密に去らせよう」であった。

2、ヨセフが何に心を痛めたのか、それは、マリヤを「さらし者にはしたくなかった」ことである。律法の定めに従うなら、姦淫の罪に対しては石打の刑である。彼は自分が身を引くことで、マリヤを去らせることができる、と考えた。彼はマリヤへの愛を、悩みつつも貫こうとしたのである。そして何故か、彼の心が定まった時、主の使いが遣わされた。決心が着く前に、悩んでいる時にこそ、主の助けや答えがあるならば・・・と私たちは思う。けれども、ヨセフが決めたことを実行する、その直前になって、神は手を差し伸べられた。彼は、心に決めたことを、尚躊躇ったり、本当にこれでよいのか自問していたのかもしれない。「ダビデの子のヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(20〜21節)

 神は、ご自身が定めておられる最もよい時に、人に手を差し伸べられる。恐らく、これより前でもなく、また後でもなく、ヨセフの心が神のご計画に対して、最も相応しく開かれる時に、み使いを遣わされたのである。彼が、妻マリヤを迎えるのに、何の恐れも心配もいらないこと、聖霊がことを成さると確信することができるように。彼は、マリヤを迎えることによって、神の大きなご計画の中に自分がいること、また神に用いていただける幸いをはっきりと知ることになった。全ては神のご計画の中にあり、預言者を通して語られたことが成就することを、彼も気づかされたに違いなかった。眠りから覚めたヨセフがしたのは、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」たことである。最早迷いはなかった。躊躇うことなく妻マリヤを迎え入れた。「そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」彼は自分の役割を認識していたようである。幼子の誕生まで、自分は幼子とその母を守る者として、神に呼び出されているのだと。(22〜25節)

3、救い主の誕生に際して、神は処女マリヤを祝福して用いられた。そして、マリヤの夫ヨセフを用いておられる。ヨセフに関する記事は、決して多くはない。けれども、彼もまた、確かに神に用いられた人である。眠りから覚めたヨセフが、「命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」と記されていること、そのことを私たちはしっかりと心に留めたい。神が命じられた通りにすること、それは易しくもあり、同時に難しくもあると思われるからである。私たち人間の心の内で、必ずのように、自分の判断や考え、また様々な思いが駆け巡ることがある。その通りしたなら、その結果どのようになるのか、私たちが考えるメリットとともに、リスクやデメリットも思い巡らす。そして、一歩踏み出す勇気を失いさえする、そのような私たちである。

マリヤとヨセフは、若くても、もう既に結婚することが決まっており、主に用いられるに当たっても、しっかりと神を仰ぎ、神のことばに聞き従う信仰を、その身に着けていた。二人とも、大いに悩むことがあり、また苦しむことが、この先、予想されることをも引き受けていた。神に従うこと、そして「命じられたとおりにする」こと、どちらも決して易しくない筈であった。それでもその通りにしたのは、彼らが第一としたのが、神に従うことだったからである。彼らの信仰は、単純であったが、明確なものであった。私たちの信仰が果たしてどのようなものなのか、マリヤとヨセフを通して問われている。神に従うなら、そのための困難や悩みもあることを、二人は十分過ぎる程に気づいていたと思われる。それでも神に従い、服従することを選び取っていた。

<結び> 神のことば、また命じられたことに、自分の考えや判断を差し挟むかどうか、マリヤとヨセフには、全くそのようなことはなかった、ということは有り得ない。マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう・・・」と、はっきり問うていた。ヨセフは、神の戒めを知っていたので、マリヤをさらし者にはしたくなく、「内密に去らせようと決めた」のであった。そして「命じられたとおりにして」、妻マリヤを迎え入れた。その後の二人の生活は、私たちが思う以上に、大変なことがあり、背負うべき困難があったと想像できる。けれども、二人はそれに立ち向かった。神には不可能がないことに加えて、神が共におられること、その確信が二人を支えたのに違いない。

 クリスマスの出来事には、神が人と共におられるとの、確かなメッセージが込められている。イザヤの預言において、そしてマリヤがみごもって、男の子を産むことにおいて、神は人となって、民の中に住まわれた。ご自身の民と共に世の終わりまで歩む方、正しく「インマヌエル」なるお方であると。共におられる神を信じ、この方と共に歩む日々を、困難があろうと前進することができるよう祈りたい。

 今年のクリスマスは、いつもの年以上に心を低くし、また心を静めて過ごすことを導かれたいと、そのように願わされる。今困難の中にある人に、確かな助けがあるように、また心に痛みを抱えている人に、真の慰めが届くようにと祈りつつ。