1.前回6章において、エリコの城壁を崩すという主の奇跡によって、イスラエルがエリコを攻略した記事を見ると共に、そこで行われた聖絶、神を第一としない者たちへの神の厳しさを見ました。
今日の箇所では、そのイスラエルに身に覚えのないことが原因で、突然襲い掛かった危機が記されています。まさに寝耳に水といった感じです。
2.その原因は、6章18、19節で禁止されていたように、アカンが主のものである「聖絶のもの」を取ってしまい、イスラエル全体に主の怒りが燃え上がったからでした。しかし、そんなことは露知らず、2節では、ヨシュアとイスラエルが、次なる町アイを攻め落とそうと考え、今までどおり偵察を送ります。そして続く3節の偵察たちの報告は自信に満ち溢れたものでした。そしてそれを受けてイスラエルは3000人をアイに上らせていますが、彼らは敗走の憂き目にあってしまいます(4節)。36人、数だけ見れば大きな損害ではないように見えますが、「民の心がしなえ、水のようになった」と記されており、続く6,7節からの、着物を裂き、頭にちりをかぶったヨシュアと長老達の姿は、絶望と悲嘆にくれていることを表わしているので、如何にこの敗北がイスラエルに衝撃をもたらしたかが記されています。
続く7節から9節では、ヨシュアの嘆きと疑問が主に対して述べてられていますが、彼らはこの時、アカンのしたことを知らず、何の心あたりもなかったのですから、主が共にいてくださるのに、何故イスラエルは敵に背を向けたのですか?自分達は主に従っているのにどうして?とそんな風に、主に対する非難をここでは述べています。
3.しかし10〜12節で、主はイスラエルが敗北した理由を語り始めます。それはイスラエルが罪を犯したからであると、「聖絶のもの」を取り、イスラエルが「聖絶のもの」になったから、敵の前に立つことできずに敗北したのだ、というものでした。ヨシュアたちは主が共にいることを信じて疑っていませんでした。しかしヨシュアたちが思いもよらないところで罪を犯し、契約を破っていた、そしてその結果、主に「私はあなたと共にはいない」と言われてしまったのです。逆説的に言えば、主が離れたのではなく、イスラエルの側で、契約を破り、主から離れてしまったとも言えましょう。この事件は、イスラエ
ル全体にとって、故意の不従順ではなく、アカンの隠された罪への無知、その事実を知らなかったことによってもたらされたものです。他方だからでしょうか。「聖絶のもの」となったイスラエルを、主はすぐ滅ぼそうとされるのではなく、敗北によって警告を与えて、神の民としての歩みを取り戻すために、イスラエルの内に入り込んだ「聖絶のもの」を探し出し、取り除くことを命じています。(12、13節)
そういった意味で、10節と13節の冒頭で「立て」とここで主がヨシュアにおっしゃっているのは、罪を取り除くことが必要でも、悲嘆にくれ、自らでは立てない者たちに、「立て」と主は激励を送ってくださっているようにも思えます。加えて主は「聖絶のもの」を盗んだものを特定していく方法をも、14節以降に示してくださっています。それはくじによって、部族、氏族、家族、男ひとりひとりと順に取り分けていく、そういったものでした。しかも「主」がその者を取り分けるというのです。
15節では、「聖絶のもの」を持っている者に対して、エリコのように、「聖絶のもの」として所有物全部と共に、火で焼かれなければならないと言われ、厳しい裁きの言葉が述べられています。そしてヨシュアは、主の言葉どおり執り行います。その結果、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子アカンがくじで取り分けられました。(16〜18節)
4.それを受けてヨシュアは、とても穏やかな言葉で、「主に栄光を帰し、主に告白しなさい」(19節)と、自らの罪を隠さずに告白するように促しています。この言葉を受けたアカンは、20、21節において、素直に主の前に、自らの罪を告白します。主が取り分けたのですから、本来なら弁解の余地はありません。ここであえてアカン自身の告白を促しているのは、罪が取り除かれる前に、その罪が主の前で隠しておかれず、明らかにされる必要があったためです。ただ取り除けばよい、ということではないのです。はたしてアカンの言葉どおり、それらは発見されました。そして23節において、主の前に置かれ、主の前で、すべてが明らかにされることとなりました。
続く24〜26節には、アカンとその所有物すべて、息子と娘もまたアコルの谷に連れて行かれ、石で打ち殺され、火で焼かれた、そこで神が燃える怒りをやめられた、と記されています。アカンの所有物、また家族に「聖絶のもの」として裁きが下されたことは、愛なる神がどうして?と思ってしまいがちですが、これは私達の罪を徹底的に取り除くことが求められているのを示唆するものです。
まとめ.厳しい結末が書かれている7章ですが、私達は自らの内に入り込んだ「聖絶のもの」に気づかなかったイスラエルに学びたいものです。彼らは、主が共にいると思っていたのに、アカンの罪ゆえに、知らないうちに、自らで主から離れてしまっていました。これらのことは、私達が神様が共にいると思っていても、自分でも気づかないうちに自ら神から離れてしまう、主から離れた歩みをしてしまう可能性があることを示唆しています。私達人間は、神から離れやすいものです。しかもイスラエルは、アイに民を送り出す時、主の指示を仰いでいません。それは主が共にいるから大丈夫だと、自らの内にある罪を彼らが過信し、きちんと見ていなかったからです。これは私達にとって反面教師となりえましょう。私達は、自らの罪深さを絶えず心に留めておくことが求められているのではないでしょうか。神が共にいてくださるからこそ、神に自らのことを常に確認していくことが求められているのです。
ですが、そうはいっても罪ある人間です。どれだけ気をつけていようと、知らず知らずに神なしの歩みをしがちなものです。しかもそのことにすら気づかない者たちです。だからでしょうか。イスラエルのように、そのことに気づかされるのは、たいてい自分にとって、マイナスのことが起きた時、痛みを覚えた時なのではないでしょうか。しかしその様な時、イスラエルのように、「神様、共にいてくださるのに何故ですか?」と神様を非難してしまうことも往々にしてあり得ます。ですが主が、アイの敗北を通して警告したように、私達が気づかないで神様から離れている時、神様はその痛みすらも用いて、そのことを警告してくださる方でもあることを忘れないでいたいものです。そして、悲嘆にくれている私達に、神は気づかせるだけではなく、ヨシュアに語られた激励の言葉「立て」という言葉までかけてくださっているのです。私達には、そのような時、自らが神から離れてしまった原因、自らの罪を取り除いていくことが求められています。だからこそ、この「立て」という主の言葉を心に灯したいものです。と同時にアカンの告白に見られるように、神に対して、自らのうちを隠さずに、気づかされた罪を明らかにしていくことが、この罪に対して勝利するためには必要なのではないでしょうか。
主が共にいてくださること、それは何よりの祝福であります。このアドベント、人となり、私達と共にいてくださるインマヌエルの主イエスキリストのお生まれを記念するこの時、その幸いを思いつつ、この祝福から自ら離れないように、過信することなく、「立て」と激励してくださっている神さまに自らを明け渡しつつ、主に導かれて、罪との戦いに勝利していくものでありたいものです。
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