礼拝説教要旨(2011.12.04)
私は主のはしためです
(ルカ 1:26〜38)

 クリスマスの季節を迎え、私たちは何を思い、何を大切にして、この時を過ごしているだろうか。教会の暦は「待降節=アドベント」、救い主の降誕を静かに待ち望む時であるが、世の中はそれとは全く別世界。年末に向けて、商売のためには何でもあり・・・の様相を見せている。私たちは、心を静めてクリスマスの時を迎え、過ごすことができるのだろうか。そのために今年も、聖書に記されている、最初のクリスマスの出来事に目を留めてみたい。

1、最初のクリスマスの出来事には、幾つもの不思議があること、それが大変印象深い。人間の一般的な常識では考え難いこと、信じられないことが起こっている。そのためか、単なるお話、或いはおとぎ話、本当かどうか、それはどうでもよい話とされているようである。けれども、聖書はとても丁寧に、その出来事を記し、読者がそれをよく考えて判断し、自分で答えを出すようにと、願いを込めて書かれている。このルカの福音書には、その願いが明確に記されている。(1:1〜4「・・・それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」)ルカはイエスの誕生を記すために、綿密な調査や聞き取りをしていたのである。

 ルカは医者であった。(コロサイ4:14)そのルカが、イエスの母マリヤの身に起こったことを、聖霊の導きによって書き記した。「ところで、その六ヶ月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」神が人間の歴史の中に、確かに、また具体的に介入されたこと、それは作り話ではなく、おとぎ話でもない。神が介入されたこと、その内容は驚くべきことであり、人が直ちに信じられることではなかった。マリヤは御使いの第一声にに戸惑い、一体何事かと、考え込むばかりであった。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、・・・」(26〜29節)

2、御使いは、戸惑うマリヤにはお構いなしに、「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。・・・」と、一気に告げた。みごもること、男の子を産むこと、イエスと名付けること・・・。神が介入されることは分かったに違いない。しかもとてつもなく大きいことが、自分の身に降りかかることも分かったであろう。けれども、みごもること、男の子を産むことについて、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と、そう言うほかなかった。ヨセフのいいなずけであっても、まだ二人での生活を始めてはいなかったからである。マリヤにとって、一体どうしてそんなことがあるのでしょう、との戸惑いであった。(30〜34節)

 御使いの答えは、短いものの丁寧である。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・」神ご自身があなたに臨み、聖霊がこれから起こる一切を支配し、幼子の誕生を導くこと、だから「生まれる者は、聖なる者、神の子」と宣言している。それはマリヤにとって、全く信じ難いのは当然であった。そこで御使いは、エリサベツのことを告げ、その上で「神にとって不可能なことは一つもありません」と言うのである。「神に不可能はなし」。神は全知にして全能であること、そのことを頭では知っていても、具体的に信じ切るのは、意外と難しいことである。マリヤに対して、神が成さるのはこれ、現にことが起こっている、とエリサベツが子を宿している事実を告げた。その事実は、神には不可能なことはないとの、紛れもない証拠となった。(35〜37節)

3、具体的な証拠を示され、神は生きておられること、その生ける神は、何事をも成し得ることをマリヤは知らされた。そしてマリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように」と答えた。この言葉を発するのに、果たしてどれ位、時間が必要であったのだろうか。聖書の記述からは、ほぼ間髪を入れずにマリヤが答えたように感じられる。それ程に、「神にとって不可能なことは一つもありません」との言葉が強烈だったのかもしれない。それが「私は主のはしためです」との告白に繋がるのである。神ご自身と自分との差の大きさを知ること、その時、人は神の前に、ただひれ伏すことが導かれる。マリヤは、主に仕えるはしためであることを知って、自分を全く主に委ねることを、素直に申し出たのである。

私たち人間は、「神を信じます。ついては、これから私のことをよろしくお願いします・・・」とばかり、随分、いい加減な信仰でよしとしているのかもしれない。それに比べてマリヤは、これから大変なことが自分に降りかかるのである。小さな町で、ヨセフとまだ一緒にならないまま身ごもること、そのことで人の目が、人の噂が、そして自分自身が・・・。考えれば考える程、恐れや不安はつのる筈であった。けれども彼女は、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えた。主を信じた。主の「ことば」を信じた。主が仰る通りに自分の身を任せたのである。それは、自分の卑しさを知ることによってできることであった。自分の小ささや卑しさを知って、神に全幅の信頼を寄せることが導かれるのである。(38節)

<結び> 受胎告知の時、マリヤは何歳であったか、とても興味深い。十二歳を過ぎたばかりの少女とも言われ、そう考えると、またまた驚きである。二十歳前であったことは確実である。その彼女が「私は主のはしためです」と、心からの信仰を言い表している。彼女はこの後、エリサベツに会って、主に賛美をささげた。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。・・・」(46〜55節)

 「卑しいはしため」と、自分の身分の低さを知るマリヤは、その自分に目を留めて下さった神を、心から喜びたたえている。私たちは、自分をどのように見ているだろうか。また神の前に、自分がどのような者であるか、そして、何を喜んでいるのだろうか。自分の小ささや卑しさを認めるのは、この世の人間の標準からは、とても我慢のならないことであろう。しかし、全知にして全能なる神の前に出るなら、その卑しさも小ささも拭い去られるのである。そして不思議にも、神のご用に相応しい者として用いられるのである。私たちは、主に用いられる者としての歩みを、主ご自身が期待しておられることを、このクリスマスの季節に覚えたいものである。「私は主のはしためです」。「私は主の僕です」。そして「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、一人一人、確かな信仰へと、また一歩前進させていただきたい!!