主イエスは言われた。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(28節)弟子たちに向かって、「あなたがたには、わたしがついているではないか。終わりの日こそ救いの完成の時ではないか・・・」と。「終わり」は単なる「終わり」ではなく、新しい「始まり」もある。だから「頭を上に上げなさい」と言われた。そして、教えを締めくくるようにたとえを語られた。
1、「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」(29〜31節)確かに「前兆」が次々と現れる時、人の心は騒ぐかもしれない。けれども、慌てることなく、それに備えられるのは、神を信じ、神を待ち望む人々である。だからこそ、人の言葉に惑わされず、自ら「前兆」を見分けること、それを一人一人ができるかどうか、心しなさいと言われた。その当時の人々も、季節の移り変わりについて、賢く見分けていた。天候の変化も見抜くことができた。(ルカ12:54〜56)その見分ける力、見抜く知恵を、この世の終わりを見分けることに使うこと、それが大事と。
「神の国は近いと知りなさい。」この言葉を、弟子たちは聞き分けることができたであろうか。「神の国」については、もう既に到来している(17:21)とも、また求めなさい(12:31)とも言われている。そして、やがて来るものと言われている。ここでは明らかに、やがて完全な形で神の支配が実現する、その「神の国」を指している。その完成の時の近さを「知りなさい」、と言われたのである。そこには、「分かるはずです。決して無為に過ごすことなく、賢く歩みなさい」との、励ましが込められていた。季節や天候を見分けているなら、きっと分かること、それ程に「前兆」は明らかであると。弟子たちは、多少戸惑いを覚えながら聞いていたのではないだろうか。彼らは後にその意味するところを理解するのであった。
2、主イエスは、更に言われた。「まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(32〜33節)何事があっても慌てず、騒がず、神を仰いで歩むためには、「わたしんことば」にこそ信頼するように。見えるものに左右されない生き方、それは、決して滅びない「わたしのことば」に拠り頼むことである・・・と。人が考えること、そして正しいと思うこと、それらは、どれだけ常識として通用していたしても、神の視点とは大いに離れている。だからこそ、人が何を見て、何を考え、どのように生きるのか、主イエスの教えに聞き従うことが、何よりも大切となる。目の前のことで、決して心焦せることのないように・・・。
「すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」と主は言われた。「この時代」あるいは「この世代」、すなわち人の営みは、たちまち過ぎ去るもののように見えても、実際に世が終わりになるのは、まだ先のこと。他方、この天地はたちまち過ぎ去るとは思えなくても、それはいずれ必ず過ぎ去るもの、滅びるものである。しかし、決して滅びないもの、過ぎ去らないもの、それは「わたしのことば」だけである。あなたがたは、わたしを信じ、わたしに従い通しなさい、と語られたのである。目に見える全てのものが崩れ去っても、それでも残るもの、それは主イエスの「ことば」であり、主イエスの「教え」である。それは「神のことば」、「神の約束のことば」の全てである。ただ生ける神だけが、決して揺るがない方、変わらないお方である。
3、主イエスの弟子たち、そして神の民には、この世にあっても、来るべき世にあっても、拠り頼むものがあり、拠り頼むことのできる方がおられる。そうでありながらも、人間の弱さは驚くばかりで、弟子たちもまた、道を誤る可能性があった。それで主は警告を発しておられる。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(34節)そして「・・・人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(35〜36節)油断せずに祈ること、また油断せずに心を見張ること、それは目を覚まして祈ることである。心が鈍くなって、判断を誤ることのないように、心が目覚めていることが大事なのである。
弟子たちは、「放蕩」や「深酒」に陥ることがあったのだろうか。「この世の煩いのために沈み込む」のは、私たちにもよく思い当たる。いずれにせよ、実に様々なことで惑わされ、神の民も、大切なことを見失う落とし穴があることが告げられている。そのような罠にはまらないよう、「油断せずに祈っていなさい」と、主は命じられた。やはり、カギは「祈り」である。「祈り」は、神に心を向けることであり、神が働いて下さるのを待ち望むからである。「油断せずに」とは、「目を覚まして」である。心が目覚めているかどうか、心がどこを向いているのか、そのように考えると分かり易い。目覚めていても、また眠っていても、いつも「主とともに生きる」、そのような日々を生きること、それが私たちにも求められている。(テサロニケ第一5:8〜11)
<結び> そのように生きることによって、弟子たち、そして私たちは、主イエスが再び来られる時、「人の子の前に立つことができる」のである。救いの完成の時、その救いに入れられる確信をもって生きるのか、それとも確信のないまま生きるのか、あなたがたこそが、しっかり生きていなさい、と主は言われた。そして、その最大の手本は、主イエスの生き方にあった。
昼の間、宮で教えておられた主は、「夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。・・・」(37〜38節)何をしておられたのか。父なる神に祈っておられた。主ご自身が、十字架への道を歩まれた時、心騒ぐ時もあり、それでも心を静め、贖いの死を遂げるため前に進むことができたのは、父なる神に祈り、常にみこころを探りながら歩まれたからである。(22:39〜46)それなくして十字架への道は、決して前に進むことはできないものであった。この主イエスのお姿、そこに私たちが倣うべき道が示されている。私たちの祈りが、確かに導かれるよう、主の教えを聞き、そして主に倣いたいものである。
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