ガラテヤの教会のユダヤ教から改宗したキリスト者に「福音の真理」(2:5)を説くパウロのことばは、さらに続きます。「律法」は、私たちをイエス様へ導く養育係であり、導かれた私たちは、イエス様を信じて義とされるとパウロは説き進めます。では、パウロは、イエス様を信じるとは、どういうことであると教えているのでしょうか。3つの点から学び、イエス様への信仰を確かにされたいと思います。
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1、まず、イエス様を信じることは、イエス様とひとつに結びつくこと、イエス様の中で生きること、イエス様が私に中に生きておられることです。
26節の「イエス・キリストに対する信仰によって」とは、“イエス様の中にあると信じることによって”といことでしたから、イエス様の中へと信じていくことですし、イエス様の中にあることです。さらに、イエス様とひとつに結びことです。
招きのことばで朗読していただきました、ヨハネ15:4,5でカギになっていることばは、「とどまる」ですが、「とどまる」ことについて、“わたしの中に”“わたしもあなた方の中に”ということが強調されています。
とくに、4節は、直訳ですと、“あなたがたは、わたしの中にとどまりなさい。わたしもあなた方の中に。”とだけ言われて、むしろ「とどまる」を省略して「わたしもあなた方の中に」が強調されています。
さらに、イエス様の中にあるということは、“イエス様とひとつに結びつく”ということを意味していました。ヨハネ15:4,5の続きになりますが、イエス様を信じるということは、ぶどうの木と枝のような関係に入ることだと言われます。枝は木に結びつき、木は枝と結びついて支えて、木、全体のいのちを保ちながら、木に期待されているゆたかなぶどうの実を結ぶという関係です。
次いでパウロは、3:27で、イエス様を着るという信仰のありかたはバプテスマにあると言います。バプテスマというのは十字架と復活のイエス様の中へと沈められること、漬けられることでした―「キリストにつく者とされる」(27節)ことです―から、バプテスマを受ける者は、全身でイエス様を身にまとい、着ることに等しいと言うのです。
パウロは、イエス様を信じることをイエス様を着るという、日々決して欠くことのできない日常生活の行いにたとえています。日々の食事が、聖晩餐を日々覚えることでるあとすれば、上着を着ることは、バプテスマを日々に覚える機会であると言えないでしょうか。
(イエス様が私に中に生きておられることについて=ガラテヤ書2:20)
2、次にイエス様を信じると、どういうことが起こるのでしょうか。
先ほどふれましたように、26節は“すべてあなたがたは、神の子です。キリスト・イエスの中にあるこの信仰によって”と訳されますが、私たちは、イエス様の中にあり、イエス様とひとつにされていることによって、イエス様と同じに神の子とされるということが起こっています。父なる神様から「あなたは、わたしの愛する子、私はあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)というお取扱いを受ける者とされています。
さらに、イエス様の十字架と復活との中にバプテスマされた私たちは、罪人の死を死んでくださったイエス様とひとつにされ、イエス様とともに罪人の私たちは死にました。そして私たちの罪をあばき続けて止まない律法から自由にされました。さらに、永遠のいのちで復活されたイエス様とともに復活する望みが与えられています。望みは“やがて”ではなく“すでに” イエス様において実現していますから、私たちは、今、肉の内にありながらまことのいのちを生きることが起こされているのです。
この神様の恵みの現実を私たちは心からアーメンと言って受け取ってまいりたいと思います。
イエス様を着た者についてパウロのことばを心に留めたいと思います。「しかし、あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(Tコリント1:30)
こうして私たちはイエス様を着て、生けるまことの神様の前に歩むことが出来るのです。さらに、私たちは終わりの日にイエス様を着て神様の前に立って、義とされ、永遠の御国へと迎え入れられることを覚えたいと思います。
3、さらに、イエス様を信じるということは、イエス様以外の何ものをも信じないということです。
私たちが、義とされ、救われることについて、イエス様を信じるということは、イエス様以外のものを追い出し、排除することを同時に行なっていることを意味しています。このことは、当然のとのように考えがちですが、生身の体をもって、まことの神を恐れない国民とともに生きる中では、かなりの闘いがあります。イエス様を信じるだけでよいのか、もっと信仰者らしい行いが必要ではないかと不信を持ったり、ああいう信仰者にはなりたくないと、他者をさばく心を介入させてしまうことです。
私たちはこのサタンの介入を断ち切ることを意識的に願い、聖霊の助けを祈り求める必要があります。
ペンテコステの日に、聖霊を注がれたペテロとヨハネがユダヤ教の最高の指導者たちを前に証したことばを私たちのことばにしたいと願わされます。こうあります。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)
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最後に、先ほど交読いたしましたところから一つの節をもう一度読みます。イザヤ書61:10です。
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