礼拝説教要旨(2011.11.13)
頭を上に上げなさい
(ルカ 21:20〜28)

 「終わり」は必ず来る。しかし「終わりは、すぐには来ません。」その教えは、一見矛盾するように響く。けれども、主は弟子たちに、その点をよくよく心に刻むようにと語っておられた。「終わり」についてではなく、「終わり=終末」を生きる、その心構えを教えようとされたのである。神を知らず、神に背いて生きる人々が、どれだけ自分勝手に生きていたとしても、神を信じ、神を恐れて生きる民たちは、決して惑わされず、慌てず、恐がらずに生きることができるからである。世の人々が富を誇り、自分の楽しみを追い求めいても、目に見える栄華は、必ず崩れ去る時が訪れる。その時に慌てるのか、その時のために備えをして生きるのか、弟子たちはどうするのかが問われていた。

1、「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」(20節)この節より、エルサレムの神殿、そして町そのものの崩壊についてが明言される。必ず訪れる「終わり」について、心せよとの「預言」である。それは「予言」ではなく、「予告」でもない。人は予め知らされていることに、それなりの備えをするかもしれない。しかし、主イエスは、そのような備えをさせようとされたのではなかった。神の言葉である「預言」を心に刻み、神を恐れ、神に従う心をもって生きるようにと、やがて必ず起こることを告げられるのである。その日、人々が間違うこと、それは目に見えるものに尚も頼ろうとする、その過ちだからである。

 エルサレムの神殿、そして城壁は、人々の目にいかにも堅固で、崩れるとは思えないものであった。それで人々が見とれていたのである。それに頼ろうとする思いが、必ず起こることを主は見抜いておられた。「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。」「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」と言われたが、ダニエル書にそのような「預言」が記されている。(11:31)そのような時、人は堅固な城にこそ、身を寄せたいと考える。けれども、そのエルサレムから逃れよ、そこに頼るなと主は言われた。その滅亡が必ず訪れ、その惨状は目を覆うばかりのものとなるからと。(21〜24節)

2、「山へ逃げなさい」との戒め、また勧めは、神がソドムとゴモラの町を滅ぼされる時、ロトに告げられたものと共通している。「いのちがけで逃げなさい。・・・立ち止まってはならない。山に逃げなさい。・・・」(創世記19:17) その時ロトは、逃げるのにもっと近い、小さな町にのがれさせてほしいと願って、その願いが聞かれている。神が告げられた通り、遠くてもそこに逃げるかどうか、自分の判断が入り込んでいたことになる。エルサレムの陥落の日にも、人々は何を考え、どのような判断を下すか、カギは神の言葉に聞くか否か、そのことに大いに係わることになる。そしてエルサレムを手に入れる異邦人も、自らの勝利にただ傲っているだけでは、やがて裁かれる日を迎えることになるのである。(24節)

 歴史上で起こること、それは「書かれているすべてのことが成就する」ことと、主は言われた。旧約聖書で預言されたことが、時至って成就することであると。しかも神の民に悲しみの経験が襲うのは、神の怒りが臨むことであるとも言われている。(22節)教えを聞く弟子たちは、神が御怒りをもって臨まれる時に、果たしてその怒りに触れる者なのか、それとも、身を弁え、神の救いに与る者なのか、自らを正すようにと導かれていたのである。それは今日、聖書を読む私たちにも当てはまる。神の教えに素直に聞き従うのか、それとも自分の考えや判断を付け加え、自分の思いを通そうとするのか、その道は全く別なものとなる。そして、それはいのちか滅びかの厳しい選択となる。

3、主イエスは、弟子たちと人々に向かって、今どこに立っているかの問い掛けをしつつ、ついに「世の終わり」、それは「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る」時である、と語られた。(25〜27節)人々が、「恐ろしさのあまり気を失います」と言われるまでの天体の変動があり、海と波のどよめきに、諸国の民が恐れおののくことになる。その「前兆」の異常さは、私たちの想像を超えるものと思われる。主イエスが語られた「前兆」は、どれもすさまじいものである。にせ教師たち、戦争や暴動、紛争、大地震、疫病、飢饉、海面の変調、天の万象の揺れ動き等々、いずれも私たちの心を激しく揺り動かし、それらが襲うなら、たちまち押し潰されそうである。いや、押し潰されるに違いない。

けれども、主イエスは言われた。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(28節)主は、弟子たちにこそ、この言葉を語っておられた。すなわち、神を恐れず、神なしで生きようとする「人々」は、「終わりの日」に恐れに包まれ、気を失い、何ら成すすべを持たずにうろたえるとしても、あなた方は「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。」あなた方の側には、「わたしがいるではないか・・・」と。主イエスが再び来られる時、その時こそ救いの完成の日である。だから「贖いが近づいたのです」と言われた。どんなに迫害が激しくとも、また自然の驚異が凄まじくとも、救いの時、また解放の時が近いなら、その時弟子たち、聖徒たちは、試練の中で耐え忍ぶことができるのである。

<結び> 主イエスは、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい」と命じられた。命令の言葉には、必ず「あなたは」また「あなた方は」との意味が込められている。他の人々は恐れ、慌てていたとしても・・・である。実際に、神を信じることなく、自分の力に頼る人々は、どんなに強がっていても、いざというとき、どんなにか無力である。この世が、今の見えるものだけで成り立ち、来るべき世のあることを知ることがなければ、今現在起こっている様々な災害は、この世の終わりの「前兆」そのものとなる。そして、どうにかしなければ、人類に明日はない!・・・とばかり、恐れと不安に苛まれる。かと思えば、全く何も気づかず、自分勝手に欲望を満たし、滅びへの道をひた走るのみとなる。私たちは自分で何とかできるのであろうか。

 私たちは、自分の力の限界を知るべきである。そして、神がおられること、天地を造られた真の神がおられ、私たちを生かし、天地万物を支配しておられることを心から信じる、その信仰にしっかりと立ちたい。「終わりの日」があり、「世の終わり」があるなら、その「終わり」の先をも支配しておられる神に信頼して、恐れなく「頭を上に上げる」こと、そのようにして平安をいただきたい。栄光に輝く主イエスが、雲に乗って再び来られるのである。その約束を信じる者は、喜びと感謝を見出す者となれる。主イエスは弟子たちに、その確かな歩みをするよう励ましておられた。その励ましと力を私たちもいただきたい。そしてこの時代をしっかり生きようでは・・・!