「惑わされないように気をつけなさい。・・・こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」主イエスは、特に弟子たちに、「終わり」が確実に来るとしても、「すぐには来ません」と語って、今を生きること、その大事さを説いておられた。(8〜9節)私たちを含めて、この世が終わりに向かっている・・・との理解は、直感的に受け止められている。天変地異が起こる度、にわかに慌て初め、そのための備えを急に思い立ったり・・・、それはよくあることのようである。主イエスは、そんなにわか仕立てのことではなく、本当の意味での備えこそすべきと、語っておられたのである。
1、「前兆」について、主イエスは更に述べられた。民族と民族の争い、国と国の争い、大地震、疫病や飢饉、天と地を揺るがす様々なこと、それらの「すさまじい前兆が現れます」と言われた。それらは、紀元一世紀の世界にも、繰り返し起こっていた。そして、いよいよ世の終わりかと、心を引き締める人もいれば、終わりはまだ来ないではないかと、心を緩める人もいた。更には、終わりはもう既に来た・・・と言う者も現れるのである。この時はまだ、紀元70年のエルサレム陥落まで、およそ40年の時間があった。主イエスは、やはり弟子たちに「惑わされないように」、そして「こわがらないように」と、彼らの心を励まそうとしておられたのである。(10〜11節)
「前兆」が現れても、まだ「終わり」は来ない、その前にあること、そのことを主は告げられた。それは弟子たちにとって辛いこと、「迫害」であった。捕らえられ、牢に入れられ、裁判にかけられる。そして遂には、殺されることまである・・・と。ここでも、「終わり」の前に、これこれがある・・・と告げて、「終わり」はまだ来ないこと、その前に心すべきはこれであると、今を生きる、その心構えを教えておられる。私たちは聖書を読み、使徒の働きを通して、弟子たちが捕らえられたこと、むち打たれたこと、ステパノとヤコブが殉教したことを知っている。多くの者が迫害によって散らされ、大変な痛みを経験しながら、福音は世界へと広まっていったのである。(12節)
2、こうした迫害は、真に痛ましく、悲しむべきことであるが、その時々に、彼らが「あかしをする機会となる」と言われた。そして主は、「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます」と、驚く程の約束をされた。通常人が人に教え、勧めるなら、どう弁明するか、あらかじめよく考えておきなさい、と言うに違いない。けれども主は言われた。話すべき「ことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」迫害に遭っても、弟子たちは、慌てることも、恐がることもなく、主が与えて下さる言葉と知恵を、待ち望めばよかった。(13〜15節)
迫害ではないが、ペンテコステの日のペテロの説教は、正しく聖霊により、主が語らせて下さったものである。(使徒2:14以下)その後、捕らえられた弟子たちは、その都度、力強く弁明している。(4:7〜12、5:17〜32)最初の殉教者ステパノの弁明もしかりである。(7:2以下)そしてパウロの生涯は、波瀾万丈の中で、何度も弁明の機会があり、その度に、主が語らせて下さっていたとすると、その迷いのなさ、力強さの源を納得させられる。主イエスは、ご自身の民、ご自身の弟子たちを、どんなことがあったとしても、確実に守られ、支えられるのである。(14:5〜6、19〜20、16:19〜34等々)
3、これら迫害の全ては、主イエスの名のゆえに、弟子たちの上に降りかかるものである。「しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」(16〜17節)それ程の迫害であっても、主が共におられる守りは、決して揺るがない。「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」(18節)憎まれ、殺されたとしても、「髪の毛一筋も」失われないとは、肉のいのちは失われても、それでも、決して失われることのない部分があること示している。人には、神との関わりのある部分、神によって生かされる「たましい」のあることを指しているのである。
その「たましい」のために、あなたがたは、もっともっと心を配るように、もっともっと真剣になって、その真のいのちのためにこそ、神を仰ぎ見ること、神に望みを寄せること、そうするべきである・・・と、主は語っておられる。「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(19節)激しい迫害の時を耐えるのは、決して容易いことではない。人に憎まれ、身内の者から裏切られるのは、耐え難い苦しみである。人と人との交わりから阻害されるのは、誰でも、悲しく辛いものである。そうした悲しみが耐えられなくなって、信仰から離れることも起こり得ることであった。だから、主は言われた。「忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」苦しみや悲しみに耐え、神を待ち望むことによって・・・。
<結び> この言葉には、「自分のいのちを勝ち取りなさい」との、強い命令が込められている。堅く立って動かされず、真のいのち、永遠のいのちを得るためにこそ、しっかりと天を仰ぎなさい・・・。「わたしを待ち望みなさい」と言われたのである。「忍耐」という言葉は、確かに「耐え忍ぶ」ことを表している。そして日本語の響きは、いかにもじっと耐えて、辛くても忍ぶことを意味しているようである。
けれども、主が言われた「忍耐」には、何があっても「辛抱する」ことより、天を仰いで望みを抱く、そのような開かれた意味合いがあった。「待ち望む」こと、望みを抱いての「忍耐」である。確かな「いのち」を待ち望むからこそ、どんなことをも「忍耐」できる、そのような姿勢のことである。永遠のいのちこそ、どんなことがあっても、自分のいのちとして勝ち取るべき、大切な「いのち」であると、主は言われたのである。あなたがたは、何があっても、どんな悲しいことが襲ったとしても、忍耐によって、永遠のいのちを得る者として、生涯を歩み抜きなさい。わたしは、いつもあなたがたと共にいます・・・と。たとえ肉のいのちが終わるとしても、永遠のいのちに生きるなら、私たちは望みをもって生きることができるのである。
(※ローマ8:23〜25、テサロニケ第一1:3「主イエス・キリストへの望みの忍耐」)
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