主イエスは、限られた時間を惜しむように、エルサレムの宮で人々に教えておられた。十字架の時は迫っており、特に弟子たちには、幾らでも教えておきたいと、その思いは溢れていたのに違いない。続く教えは、宮の造りの素晴らしさに見とれた人々がいて、余りに感嘆している様子を受けて語られた。見とれていた人々の中に、弟子たちも含まれていた。その人々に向かって、言われた。「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(5〜6節)
1、これを聞いた弟子たちは、驚くとともに、そのようなことが起こるなら、それは何時なのか、起こるには前兆があるのか、と質問した。(7節)エルサレムの宮は、それは見事な造りで、これが崩れるとは思えない位、豪華絢爛、きらびやかであったと言われている。ソロモンが建てた最初の神殿は、バビロンの王ネブカデネザルによって破壊されたが、バビロン補囚後に再建され、それもまた紀元前37年に破壊されていたのを、ヘロデ大王が紀元前20年頃から再建していたものである。彼はユダヤ人の歓心を買おうと、贅沢の限りを施し、回廊の柱を大理石で、しかも12メートルの柱を継ぎ目のない一つの石で造り、奉納物には金箔を張りめぐらしたり、見とれるばかりの宮であった。
初めて宮を見る人は、それに圧倒されるのはもちろん、日頃エルサレムに住む人々にとっては、その宮の素晴らしさを誇らしげに思い、それで自分も満足する、そんな日々を過ごしていたと思われる。けれども主イエスは、そんな見事な宮さえも、全く崩れ去る日が必ず来る、見えるものには「終わり」があると、明言されたのであった。弟子たちが、「いつ」起こるのか、「前兆」があるのか、と質問したが、その思いはよく分かる。弟子たちばかりか、エルサレムにいた民衆も、何時のことなのか、しるしがあるなら知っておきたいと、誰もが思うことであった。(※マタイ24:3では、弟子たちが密かに尋ねている。)
2、主イエスの答えは、「惑わされないように気をつけなさい。・・・」であった。(8節)エルサレムの宮が崩れ去ることについては、もう既に告げられていた。(13:35、19:44)それは、エルサレムそのものの滅亡の預言でもあった。その時が近づくなら、必ずのように登場するもの、それは「わたしの名を名のる者」であり、しかも「大ぜい」現れると言われた。彼らの「あとについて行ってはなりません。」それに加えて注意すべきことは、「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。・・・」であった。(9節)実際に「戦争や暴動」程、人を恐れさせるものはないとしても、「こわがってはいけません」と、主イエスは言われた。周りで人々がどんなに慌てていたとしても・・・。
イエスの名を名のる者とは、明らかに「偽預言者」、「偽教師」たちを指す。そして「戦争や暴動のこと」とは、何時の時代も、人類が経験している悲しむべき現実である。それらが「前兆」として起こるとしても、よくよく考えてみなさい。「それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」と、「惑わされず」また「こわがらない」ことを、主は命じられた。注意すべきは、すぐには「終わり」は来ないこと、そのことを知りなさい、と言われたことである。「終末」について、主イエスはいろいろと語り、「人の子の日」に起こること、それは救いの完成であり、裁きの実行であることを告げておられた。けれども、その日が「いつ」であるか、あれこれ心を騒がすのではなく、「終わりは、すぐには来ません」との認識こそが大事なのである。
(※預言された「終わり」の一つは、それからおよそ40年後、紀元70年、ローマ軍により包囲されたエルサレムの崩落により到来した。そして、世の終わりとしての「終わり」は、なお先のことして残っている。)
3、この教えを、今日、今、私たちが聞くなら、何を聞き取ることが求められているのだろうか。「終わりのしるし」、「前兆」については、偽預言者の登場、戦争や暴動のこと、また、この後の段落で語られる、民族紛争や国際紛争、大地震、疫病、飢饉など、確かに「しるし」と捉えられることが列挙されている。それを今日の世界情勢に当てはめ、大地震の頻発、大洪水、それに戦争と紛争の拡大など、今や「終わり」の様相であると、大声で叫ぶ人がいる。けれども、主イエスは一貫して、「時が近づいた」と言う言葉にも「惑わされず」、「こわがって」心を騒がせることのないように、と語っておられる。
実際のところ、教会自身が案外浮き足立っている、そんな現実があるのかもしれない。「終わり」が近いからこそ、今こそ救いに入るように、信仰の決心をするようにと、そんな迫り方だけをしているとしたら、それは反省が必要と思われる。大地震が続くと、私たちの心は騒ぐ。東日本大震災の翌日、長野県の栄村を震度6強の地震が襲っている。台風による災害も頻発し、タイで大洪水が起きている。そして、トルコ東部で大地震、エジプト、シリア、リビアなどの政情不安、幾らでも数えられる。だから「時は近づいた」、「終わり」はそこまで来ている、と言われると、やはり心穏やかではいられなくなる。
<結び> けれども私たちは、主イエスの教えをしっかりと聞きたい。目の前の事柄に対して、徒に怯えることなく、また人の言葉に惑わされず、「終わり」があることを前提としつつ、「終わりは、すぐには来ません」と言われたことに、心の目を留めたい。
主イエスは、弟子たちに、今を生きることを望まれたのである。それは、何時終わりが来たとしても、慌てない生き方である。自分に今与えられている務め、自分に託されている責任など、私たちは、その務めや責任を、今しっかり果たすことこそ尊いと気づかされる。それぞれの生活が、どれだけ平凡であっても、主イエスを信じる者として、神を仰ぎ、神に信頼を寄せて生きること、その生き方が尊い証しとなる。「惑わされず」、また何事が襲っても、「恐がらず」に日々歩むこと、前に進むことが導かれるよう祈りたい。天の父は一切を支配し、必要を満たして下さっている。そして主イエスは私たちと共に歩んで下さるからである。
|
|