礼拝説教要旨(2011.10.23)
貧しいやもめのささげもの
(ルカ 21:1〜4)

 21章46節以下、「律法学者たちには気をつけなさい。・・・」との教えが語られていた。主イエスは、弟子たちに注意を促しておられた。偽りの宗教また信仰をはびこらせることのないように・・・と。一世紀の後半には、「敬虔を利得の手段と考えている人たち」が現れ、そのために争いが生じていた、とは、今日の教会も心して聞くべき教えと痛感する。(テモテ第一6:5)主イエスは、その教えを続けるようにして、人々が献金をささげている様子に目を留めながら、弟子たちに語られた。偽りの信仰に対し、真の信仰はこうあるべし・・・と。

1、エルサレムの宮には、13のラッパの形をした献金箱があった。それは婦人も近づける場所にあって、自発的にささげるための他、用途に合わせてささげるように備え付けられていた。礼拝のために宮に来た者が、自分の心に決めたささげものをしようと、それぞれ献金をささげていた。その近くにイエスがおられ、人々の様子を見ておられた。主イエスの目に留まったことは、多くの金持ちたちが、大金を投げ入れていた様であった。彼らは、人に見えるようにしていたのに違いなかった。当時の金持ちとは、やはり民の指導者たちであり、見せびらかす祈りをする者たちは、競うようにささげていた、そんな様子が思い浮かぶ。それこそ偽りの宗教、偽りの信仰であった。(1節)

 そこにやって来たのが、ひとりの貧しいやもめである。彼女は、レプタ銅貨二枚を投げ入れ、そっと去って行った。イエスはその様子をじっとご覧になり、そして弟子たちに言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。」(2〜3節)主イエスがそのように言われた理由は、「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたから」であった。(4節)私たち人間は、ほとんど、ささげた金額の大小、多少でしか判断できないのに対し、主ご自身は、ささげた人の心の内を見ておられたのである。神への信頼の度合いが、そのささげものに表れるからである。

2、主イエスが見抜いておられたことは、「あり余る中から」の献金と、「乏しい中から」の献金の違いであった。その違いは、「生活費の全部」をささげるかどうかに表れるのである。金持ちたちは、確かに大金をささげたかもしれない。けれども、それは「あり余る中から」であり、ささげても生活そのものは、何らの変化も生じないものであった。自分の必要は、先ずしっかり確保した上で、余った中からささげる、という仕方である。余った中からなので、幾らささげても、自分の生活は何ら痛まない・・・。そこには神への信頼の心は、ほとんど反映されることはない。決してない・・・と言える。

 しかし、「乏しい中から」のささげものは、単に「少ない中から」ではなく、「何もない中から」のささげものを意味していた。全く「何も持っていない中から」ささげたと言うほどに、彼女は、貧しさの中からささげていた。「持っていた生活費の全部を投げ入れた」とは、全幅の信頼を込めて、神に心を注ぎ出していた姿である。彼女のささげものには、神への信頼が込められていた。それは分相応というより、分を超え、「力以上」にささげてもいたことになる。(※コリント第二8:3〜4)今あるもの全てをささげたので、その日の必要はどうしたのかと、心配になる位であった。けれども、彼女はその心配を神の委ねたので、ささげ切ることができたのである。

3、この教えから、私たちは献金の仕方を学ぼうとして、無理をすることがある。全てをささげること、生活費の全てをささげてこそ尊い・・・と。或いは、献金は額の大小や多少ではなく、ささげた後の残りを神は見ておられる・・・と。いずれも、その通りであるが、そのようにばかり考えると、結局は、献金やささげものの本質を見失うようである。主イエスは、律法学者たち、民の指導者たちの偽りの宗教や信仰とは違う、本当の信仰を教えようとしておられた。その思いは、やはり心を見ておられる神の前に、どんなささげものであっても、心を注ぎ出すものであるように、そして、神を信じ、全幅の信頼を寄せてするものであるように・・・であった。

献金にしても奉仕にしても、信仰深くありたいと願いつつ、私たちは、ついつい熱心さを追い求め、人と比べることになり易い。全てのことは、自発的に、喜んですることが大切と分かっていても、知らずして、道を逸れてしまう。私たちは、生活の全てが、生ける真の神と関わっているか、部分的にちょっと関わっているのか、先ずそのような点検が肝心である。心をささげ切る自分がいるかどうか、喜んで自分をささげ、神に仕えているかどうか、自分に問うてみたい。神第一を、ただ口ずさむのではなく、そのように生きているかどうか・・・と。(※コリント第二9:5〜7、マタイ6:33)

<結び> それにしても、私たちは報われること、或いは自分が祝福されることを願い過ぎている・・・と気付くこと、しばしばである。それは献金に関してそうであり、奉仕や信仰生活全般に及んでいるのかもしれない。主イエスは、このやもめに、一言も声を掛けてはおられない。そのことに目を留めたい。やもめ自身も、誰かに認められることや、声を掛けられること、人に見られることを望んでもいなかったのであろう。その場では、何も報いられることなく、ささげものをしてそこを立ち去っている。生活費の全部を投げ入れ、そのことを見ておられる神に信頼して、そこを去った。神を仰ぎ、神に覚えていただけることで満足していたのである。この信仰、この態度を私たちも学びたい。神を信じて、心安らぐ信仰こそ、真に尊いことを!