「生かされているいのち」を主題とした伝道集会の三日目、今朝は十字架を間近にした頃、主イエスが弟子たちに語られた大切な教えに耳を傾けてみたい。そこには、私たちを含め、全ての人が本当の意味で気づくべき大切なこと、決して見逃してはならない教えが語られている。と同時に、人間とは、かくも愚かしく、的はずれなことをするものか、と思い知らされもする。
1、人が、愚かしく、また的はずれ・・・とは、いつの時代、どこの国でも、さほど違いはない。今、この日本の社会は、とてつもなく大変な状況にあることは、恐らく誰もが認めることであろう。国の財政が行き詰まり、借金が膨れ上がり、ほとんど解決の見通しが立っていない。そして3月の東日本大震災に加え、福島第一原子力発電所の大事故が、日本ばかりか世界を巻き込む危機を招いている。復旧と復興にかかる費用は底なし・・・、と考えるのが妥当と思われる。ところが私たちは、何故かそれ程には切羽詰まってはいない。冷静を装っているのか、あきらめてしまったのか・・・。真剣になって、自分の生き方を問い直されること、それが大事であるが、なかなかそこに行き着かない。
主イエスの弟子たちもまた、かなりトンチンカン・・・と思えるのは、主がエルサレム行きを明言され、十字架の死とよみがえりを予告された直後に、ヤコブとヨハネの母が、天の御国で「ひとりはあなたの右に、ひとりは左に」、と願い出ていることである。緊迫感を味わいながらも、何かしらの勝利を感じたのであろう。十字架の苦難を飛び越すように、御国での地位を約束していただきたいと願っている。当然のように、他の弟子たちは、「このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」他の人を押しのけても、自分が先に立ちたいとの思いは、イエスの弟子たちの間でも、歴然たる事実であった。今こそ心を静めて、主イエスの思いに添うべき時でさえ・・・である。(20〜21節)
2、主イエスは、的はずれな弟子たちと、その母を思いやるように、「あなたがたは何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と尋ねられた。けれども彼らは、「できます」と胸を張った。(22節)何も分かってはいなかったのである。この無知は、やはり全ての人に当てはまる。自分の人生は、自分の力で勝ち取るもの、或いは、自分の努力や才能で切り開くものと、ほとんどの人が考えている。そう信じ込んでいるのかもしれない。しかし、神がおられること、そして天の父が万物を支配しておられることを、人は決して忘れてはならない。弟子たちも、自分のこと、目の前の損得や利害のことで、この世の価値観が心の中をよぎっていた。彼らもまた、間違った競争心に支配されていたのである。(23〜24節)
主イエスは、弟子たちの間違った考えを正そうとされた。この世の支配者が人々を支配すること、また偉い人たちが人々に権力をふるうことがあっても、「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい」と言われた。世間では、「偉い人」とは「人の上に立つ人」と、当然のように考えられていても、弟子たちの間では違うことを、主は明言された。「みなに仕える者」、「しもべ」こそが、弟子たちが目指すべきものなのである。弟子たちには、別の生き方があること、世の人々とは違う生き方があることを示された。偉くなりたいと思ってはならないとは言わず、「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。・・・」と。(25〜27節)
3、「偉くなりたい」、「人の先に立ちたい」、或いは「人の上に立ちたい」と思うこと、願うことを退けてはおられない。そのように願う時、人が取る手段は必ずのように、力による支配である。それは、時に、暴力を伴うものとなる。けれども、イエスに従う者たちの間では、それと正反対の仕方、仕える者となり、僕となり、奴隷のようにして仕えること、そのように振る舞うのことが弟子たちに求められている。それは徹底的にへりくだることであり、他の人の用に用いられる者となることである。教えを聞いていた弟子たちの中には、それは分かるけれども、「できません!」と、心の中で叫ぶ者がいたかもしれない。私たちも、仕える者より仕えられる者になりたい、給仕する者より、給仕される者になりたいと、ほとんどの人がそのように願うものである。
それで主イエスは言われた。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(28節)「わたしがこの世に来たのは、仕えられるためではない。仕えるためである。十字架で死ぬためであり、その死は贖いの代価、身代わりとなって死ぬことである。いのちを捨てることによって、多くの人にいのちを与えるためなのだ。そのことが分かると、仕える者となることの意味が分かるであろう。」主イエスが十字架で死なれること、その死が何のため、誰のためなのか、今分からなくても、よく考えなさい、覚えていなさい。必ず、仕えることが何であるかが分かるようになる、と言われたのである。そして、あなたがたは、わたしに倣う者となりなさい・・・と。
<結び> 弟子たちは、主イエスが十字架で死なれた時、ほとんど主を見捨てて逃げ去っていた。罪ある者の身代わりとなって、そのいのちを代価として支払われたなど、思いもよらなかった。けれども、イエスが死からよみがえり、弟子たちの前にその姿を現されたので、彼らの思いは一変した。いや一変させられた。それまでに聞かされていたこと、教えられていたことが、すっきりと筋道の通ること、正しく真理と確信させられた。主イエスは、父なる神に生かされ、父なる神の御旨を行うためにこの世に来られ、十字架で身代わりの死を遂げるまで、仕える者の道を歩まれた。私たちは、その主イエスを救い主キリストと信じて、この方に生涯変わることなくお従いしたい、と心から願う者となったのである。
彼らは、イエスの十字架がどれだけ悲惨で、苦しみに満ちていたか、よくよく思い知った。罪ある者のため、罪のない方が苦しみを受けることが、どれだけ理不尽であるか、けれども、それこそが身代わりであって、贖いの代価としていのちを捨てることに他ならなかった。清く正しい神が、罪に対する怒りを納めるために、罪のない方のいのちを要求されたのである。主イエスは、十字架でいのちを捨て、罪の代価を支払うことによって、イエスを救い主キリストと信じる人のいのちを、滅びから永遠のいのちへと救い出して下さった。弟子たちは皆、生きるなら、このイエスに倣って生きて行きたい・・・と、心に決めることになったのである。
(※ペテロ第一2:21〜25)
私たちもまた、どのようにこの地上の日々を生きようとするのか、聖書を通して問われている。主イエスを信じ、主イエスに倣って生きたいと願うのか、それとも、自分の思いのままに生きるのか・・・? イエスに倣って、仕える者となって生きようではないか。誰も彼もが人に先んじていたいと、人の心が益々荒むこの時代、本当の意味で仕える人こそ求められているのに違いない。だから、私たちはイエスに倣う者となりたいのである。またイエスに倣う人が起こされるよう、心を込めて祈り求めたいのである。
|
|