1.5章において、主に信頼して従うことがイスラエルには求められていました。6章においても、それは同様であります。1節では、エリコは城門を堅く閉ざしていたとあり、堅く、と強調されています。
他方2節で、主は、これから渡す、ではなく、すでにエリコの町と王と勇士たちを手に渡したと、過去形で宣言しており、後はこの堅く閉ざされている城門のみがここでは問題となっていました。
3節から5節では、戦士達に挟まれた主の契約の箱が、7人の祭司たちが吹き鳴らす角笛の音と共に、6日間、エリコの城壁のまわりを日に一度回り、7日目には、7度まわる。そして、最後に角笛が長く吹き鳴らされたら、民達が、ときの声を叫ぶ、そうしたら城壁が崩れる、と、そのように主はおっしゃっているのです。
2.このイスラエルの行進において、とても大切な点は、契約の箱を中心として、祭司、角笛など聖書において完全数、聖なる数字である「7」が並んでいることです。また、7日間かけて行われており、必然的に安息日を含んでいます。つまりこの行進は、主を前にして、主の臨在の中、行われる礼拝行為、霊的な行為であったのです。8節からは、その言葉を忠実にためらわずに実行していくイスラエルの姿が表わされています。さて16節では、すべてが指示通り行われ、「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。」とのヨシュアの力強い言葉が語られています。ここで命じられた「ときの声」とは、勝利を確信してあげるものです。城壁がいまだ目の前にある中、いまだ勝利をしていなくても、主がエリコの町を与えてくださっていること、そしてこの城壁をも崩してくださることへの信頼から、このときの声は叫ばれるものでありました。はたしてこの行進の結末はどうなったのでありましょうか。20節で、民は大声でときの声をあげています。その途端、城壁が崩れ落ちました。主がなされたこの奇跡、主が共にいてくださることの信頼を更に深めつつ、イスラエルは、まっすぐ町へのぼっていき、エリコを攻め取りました。
3.他方、21節にあるように、ここでは「聖絶」ということばで、エリコの町をイスラエルが滅ぼしつくしたことが記されています。これは、17節のヨシュアの命令によってなされたものでした。非情なる態度でエリコの民たちに臨む主の姿がここではよく表わされています。聖書辞典では、「聖絶とは、神のものとして完全に絶ち滅ぼす」とあります。またこの箇所では、主が命じられたという意味で、イスラエルの聖戦という言葉がよく語られます。イスラエルの聖戦の下に行われたこの聖絶は、私達の感覚では、信じがたい、ひどすぎると感じてしまうものです。また、私達は「聖戦」ときくと、それが愛をかたる聖書の神がなさることなのか?そのように思ってしまいます。しかしこれは十字軍などにも見られる軍事行動を正当化する「聖戦」の思想と呼ばれるものと、このヨシュア記の記事を混同してしまっているからなのではないでしょうか。そのために、この箇所自体が、特異に扱われ、正しく読まれないのではないのかと思えてなりません。
カナンにおいて、神が聖絶を、徹底的に根こそぎ滅ぼしつくすように命じておられるのは、カナンにおいて、主が忌み嫌っておられる偶像崇拝が行われており、それは聖なる神にとって、耐え難い、許しがたいものだったからです。(出エ22:20)そして聖なる神は、その偶像崇拝を、真の神を神としないことが、イスラエルの中に入り込むことを厳しく禁じ、偶像が入り込まないために、聖絶という形でもって、これを徹底的に根絶するよう命じられたのです。更に言うならば、これは異教の神々を崇拝しているカナンの民に対する裁きという側面も当然ありました。そのような意味で、ここでは神が戦いを命じていますが、これは異教の神々に、偶像礼拝を行っている者たちへの、裁きの記述であります。そしてその裁きのために、イスラエルを裁きの執行者として用いているのです。しかし、そのイスラエルもまた、聖絶のものになりえることが語られています。(18節)多くの聖書の記事において、神は、神以外のものを第一とする者たちへ、聖絶という裁きを行ってきています。それはイスラエルもまた例外ではありませんでした。イスラエルが異教の神々にいけにえを捧げた場合、その町そのものが聖絶される(申13:6‐18)とも記されています。そういった意味で、イスラエルの斥候たちをかくまったラハブがここで救い出されていることは、聖絶と対照をなすもので、この聖絶の概念に一つの光を投げかけています。神は、異邦人であっても、異教の神々を崇拝する穢れた生活から、真の神を恐れ、礼拝するものとなった者を捨て置かず、救い出してくださるのです。つまり、神は、聖書の中で一貫して、罪ある人間、神以外を神とする人間達を裁かざるをえない方であり、滅ぼしつくす方であり、逆にそこから離れるものには救いの手をさし伸ばしてくださっている方なのです。ヨシュア記だけが特別ではないのです。他方、神を第一としない、神以外を神としてしまう人間に対する裁き、という視点で考えますと、聖絶は当然私達にも当てはまるものではないでしょうか。つまり、本来ならこの聖絶は、私達もまた受けなければならないものであった、ということです。としますと、イエス様は、十字架によって、聖絶なものであった私達が受けなければならなかった裁きを受けてくださったことになります。十字架上の苦しみはどれほどのものであったのでしょうか。そのイエス様の姿を思うとき、私達の持つ罪は、神にとって、どれほどまでに許しがたいものなのか、自らの罪深さを突きつけられるのではないでしょうか。それらを考えるのなら、この神の裁き、聖絶を厳しいと取るのか、当然のことだと思うのか、、、もしこの聖絶を厳しいと取るのなら、イエス様の十字架自体、そこまでする必要がなかった、そのように否定してしまうことになってしまいかねません。自らの罪の深さを心から覚えるのなら、この聖なる神の裁きの厳しさに対して、私達は本来何もいえず、ただイエスキリストに感謝するものとなるはずです。どれだけ自分達が罪深い存在なのか、神にとっては裁きの対象であるのかを覚えて、聖絶のことで神を批判するものにならないようにしたいものです。
4.私達は、キリストの十字架のゆえに、聖絶のものから、罪を持ちながらも、神の子として、聖別されたものたちになりました。しかしだからこそ、自らの内も、聖なる神にふさわしいものとしていただく必要があります。そのような意味で、この聖絶は、霊的に、聖絶の対象が、自らの罪であるという側面を持っています。つまり自らの罪を、神以外を神として、神を第一としないものを聖絶していくことが私達には求められている、ということです。ですが、私達は罪深い、自らの罪すらもなかなか気づけない者たちです。また自分の罪に気づいたとしても、なかなか自分というものと徹底的に向き合っていくことが困難な者たちです。自分と向き合えない自分がいることを、私自身は感じます。どうしたら自分という殻にも似たものを破れるのでしょうか。これは、このイスラエルの行進の記事に答えがあるように思えます。エリコ攻略において、神はエリコの町と王たちをすでに手に渡した、と完了形で記されていましたが、その時点で城壁だけが障害となっておりました。堅く閉ざされたエリコの城壁が大きな障害であり、それを崩していくことが大事なことでした。この城壁は、自らと向き合うことを嫌う堅く閉ざされた私達の「自分」という殻なのではないでしょうか。しかしそれは神が崩してくださるものでした。そして神は、城壁が崩れたら、まっすぐに上って行って、攻め取れ、聖絶せよ、と命じておられました。私たちもまた、殻が崩され、まっすぐに自らの罪と向き合っていくなら、自らの罪を聖絶していくことが出来るのではないでしょうか。神がすでに私達の手に渡してくださっているのですから。
イスラエルは、城壁がくずれる前に「ときの声」をあげました。彼らは主を信頼して、勝利を確信していたのです。私達もまた、「自分」と自らのうちにある罪に対する勝利を確信して、結果によってときの声をあげるのではなく、主がその大きな障害を取り除き、すでに私達の手に渡して下さっていることへの信頼にたって、主のことばに従いつつ、勝利を確信して、「ときの声」をあげつつ、聖なる主にふさわしいものを目指しつつ歩みたいものです。
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