礼拝説教要旨(2011.10.02)
大切なことは何?
(ルカ 20:45~47)

 主イエスの公の生涯のほぼ中ほど、弟子たちは、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と、主から問われていた。ペテロは弟子たちを代表するように、あなたは「神のキリストです」と答えた。(ルカ9:20)その時を境にして、主イエスは十字架への道をはっきり意識し、エルサレムへと歩まれた。「あなたは、わたしをだれだと言いますか」との問いを、常に人々に向けておられた。そして今、受難週の緊迫した中で人々に語り、反対する者と相対しつつ、弟子たちには大切な教えを語り続けておられた。

1、「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。・・・」との反撃には、主イエスの自己証言が込められていた。「わたしこそキリストである。ダビデの子以上の者、神の右の座に着く者である」と。聞いていた人々は、果たして自分の答えを出したであろうか。敵対していた民の指導者たちは、恐らく肝心なことは聞き逃し、苦々しさを味わいつつ引き下がったのであろう。民衆は、「この方は一体だれなのか」との思いを抱きながら、尚も教えに耳を傾けようとしていた。弟子たちは、全ては理解できないままであったが、「神のキリストです」との告白を、確かめていたかもしれなかった。そのような時、主は弟子たちに向かって語られた。彼らに、民の指導者たちが陥っていた、同じ誤りを犯すことのないよう、注意を促すためであった。(45節)

 「律法学者たちには気をつけなさい。・・・」(46~47節)聖書を知っていいながら、しかも人に教えながら、その一番肝心なことを読み取ることなく、自分勝手な道を突き進む、その誤りを弟子たちが犯すことのないよう、具体的に語られた。律法学者たちの誤り、また間違いは、一言で言うと「高ぶり」であった。見えることで自分が評価されることを好み、人々からの尊敬を得るように、ただそればかりが関心事であった。彼らは、神が人の心の内を見ておられ、心の思いを計られることには、全くと言ってよいほど気づいていなかった。主イエスが弟子たちに教えようとされたのは、本当に大切なことは何か、それは心を見ておられる神の前に、心を低くする者となること・・・であった。

2、弟子たちが気をつけるべきこととして、律法学者たちが陥っていたことが、六つ挙げられている。「長い衣をまとって歩き回る」こと、「広場で挨拶される」こと、「会堂の上席」、そして「宴会の上座」を彼らは好んだ。それらに加えて、彼らは、「やもめの家を食いつぶし」、「見えを飾るために長い祈り」をした。(※新共同訳:「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」)人からの賞賛を勝ち取るため、「長い衣」をまとって見せびらかし、人のいる所で挨拶されるのを心地よく感じていた。会堂や宴会では、当然自分は上席とばかりに振る舞い、そのために競い合いさえしていたようである。それらのことは、彼らの習性のように染みついていたのである。(※11:43、14:7。※「長い衣」は律法学者の制服のような衣。※マタイ23:1~36)

 「やもめの家を食いつぶし」と言われることは、貧しい人や、やもめの親切なもてなしにつけ込んで、それによって支えられる律法学者、パリサイ人たちがいたことを暗示している。彼らは、見栄を張るように長々と祈ること、いかにも信心深いかのように、長い祈りをしていたのである。これらは、全て上辺を着飾るものであって、心の底からのものではない。偽りの宗教家の姿であり、「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」主イエスは、彼らに下る裁きは、人一倍厳しいものとなると明言された。当時の指導者のほとんどが、この厳しい裁きを逃れられないほどに、道を踏み誤っていた。それと同じことが、弟子たちの間にも忍び込む恐れがあった。だから主は語られた。

3、主イエスが教えようとされたこと、それは、本当に大切なことは見えることにではなく、見えないことにこそある、であった。心の中をご覧になる神の前に生きているかどうか、そのことを忘れて生きる時、神の裁きを免れる人は一人もいない。いないばかりか、知っていて従わない者、人に教えていながら自分は行わない者は厳しく裁かれる・・・と、主イエスは弟子たちに警告されたのである。悲しいことに、コリントの教会では早々と分裂が生じ、自分はだれにつくかで争っていた。見えることでのみ評価する、世の習わしが入り込んでいたからである。一世紀の後半のエペソでは、「敬虔を利得の手段と考える人」が教会を脅かしていた。偽教師、偽預言者の登場は、教会の外からのことではなく、教会の中から生じる厄介な問題であった。(※事実として教会は、一世紀の早い時期に、この教えをはっきりと聞かねばならくなっていた。※ルカ6:26以下、Ⅱコリント4:18、5:12、ヤコブ3:1以下。)

教会の中から生じる厄介な問題とは、弟子たち一人一人にとって、外から来るものではなく、自分の内側から生じる問題であることを意味している。主イエスが「気をつけなさい」と言われたことは、一人一人が自分の問題、また課題とすべきことであった。この世で生きている限り、目に見えることに心惹かれ、人の目が気になり、人の評価を頼ることは、私たちも、同じように抱えている弱さや愚かさである。キリストの教会も、この世にある限り、よくよく注意すべきと痛感する。牧師や教師は特に注意が必要・・・と。知らずして陥る罪と、知っていながら陥る罪とで、どちらがより罪深いか、答えは明白である。全てキリストにある者は、すなわち、キリストを信じ、クリスチャンとして歩む者、クリスチャンとして生きようと願う者は、主イエスが問うておられること、「本当に大切なことは何ですか?」との問いに、一人一人答えられるよう、日々みこころを探りつつ、確かに歩みたいものである。

<結び> 心を低くすること、ひたすら謙遜になること、心砕かれた者として生きるには、いよいよ深く主イエスの教えに聞き従うことが求められる。聞き従うには、イエスご自身のお姿に益々似る以外に、道は決して開かれない。私たちがどれだけ、主イエス・キリストご自身に似る者となるか、似る者に変えていただくか、そのために聖霊のお働きに信頼し、全幅の信頼を寄せて歩むこと、それだけである。十字架の死にまで従い抜かれた方、この方を救い主キリストと信じる信仰によって、私たちは、この方に似る者としての歩みが導かれるのである。(※ピリピ2:1以下)

 私たちは、この世で尚、人の目を気にしたり、人からの賞賛を心待ちしたりする弱さを持っている。けれども、主イエスに倣って、心をご覧になる神の前に、心安んじて生きる者とならせていただきたい。神の前にも、また人の前にもへりくだること、心から仕える者となって歩むこと、そのような生き方が身に着くよう心から祈りたい。主イエス・キリストに従う者として・・・。