受難週の限られた時間に、一刻を惜しむように民衆に教えを語っておられた主イエスの元に、祭司長や律法学者たち、民の指導者たちが次々と論争を挑んで来た。けれども、納税についても、復活についても、主イエスはきっぱりと退けておられた。そして今度は、イエスご自身が、「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」と問い掛け、反撃に出られた。(41節)マタイとマルコには、その前になされた「たいせつな戒め」の問答が記されているが、ルカでは、復活論争の更なる展開として、主イエスからの問いが記される。
1、「ダビデの子」との称号は、「キリスト=メシヤ」の到来を待ち望む人々の間では、ごく普通に広がっていたと考えられている。「ダビデの子孫」としてキリストが来られること、そのキリストによって国が再興されると、多くのユダヤ人たちは期待し、待ち望んでいた。(※エリコの盲人は、「ナザレのイエス」と聞き、「ダビデの子のイエスさま」と叫んだ。(ルカ18:38))先の復活論争において、聖書も神の力も知らないため、「思い違い」をしていると指摘された主は、「キリスト」を「ダビデの子」と言うことに、何か思い違いが入り込むことを指摘しようとされたのである。「ダビデの子」、また「ダビデの子孫」として「キリスト」が来られるとしても、「キリスト」は「ダビデの子」以上の方であることを、誰もが知るべきであったからである。
「キリスト=メシヤ」についての人々の誤解は、「地上の王」として、その到来を待ち望んだことであった。ローマに支配され、この世の権力によって様々な不利益を強いられていたので、その圧政からの解放を期待するのは、当然なことであった。それは当然であっても、それ以上に誤解が広まることや、間違ったままで「キリスト」を待ち望むことが、これ以上広まることのないようにと、主は願われた。「地上の王」と考える限り、思い違いから逃れられず、正しい理解には至らないからである。この反撃により、「あなたがたは、わたしを誰と言うのか」、「わたしを神の子、キリストと知っているのか」と、問い詰めておられたことになる。
2、主イエスは、聖書をよく知っている筈の、民の指導者たちに問うておられた。「ダビデの賛歌」と表題のついた詩篇110篇1節を引用し、ここで言われているのは、どういう意味かを問われた。但し、こういう意味ですとの答えは語らず、自分で考えるよう仕向けられた。そのため、実際には難解な教えとなっている。「ダビデの子」ではない、と言われたのか、そうではないのか、また「主は私の主に言われた」のは、一体誰に言われたのか等々、解釈がいろいろである。しかし、「キリスト」は、ダビデにとって「主人」と言うに相応しい方である。それで、「わたしこそ神の子であり、キリストであり、神である」、そのことは、「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい」と言われていることに示されているではないか、と問い掛けておられたのである。(42〜44節)
「わたしの右の座に着いていなさい」との言葉は、天の父が御子イエスに語られたものとして、十字架の死の後、復活されたイエスが、神の右の座に着かれたこと、そのことを繰り返し論証する言葉として使われている。すなわち、主イエスは、これからしばらくして後、人々に捨てられ、十字架で死ぬことを知っておられた。死んだ後、死からよみがえることも知っておられた。死から復活する、その「わたしこそキリストである。神の子である」ことを自己証言しておられた。「聞く耳のある者は、聞きなさい・・・」、答えは自分で出しなさい・・・と。終わりの日の復活についても、今は半信半疑でも、イエスの復活に接し、よみがえりのイエスこそ約束の「キリスト」と信じるなら、その信仰によって迷うことはなくなるからである。(※使徒2:31〜36節)
3、自分勝手な人間の思い込み、また自分の知識に頼る不遜さ、そうしたものが、神を信じることを妨げる。神が人を造り、これを生かそうとしておられる、その本当のいのちを生きることから、人はどんどん離れるばかりとなる。神に造られた人間は、神と向き合い、神との関わりで生きる時、本当の意味で生きるのである。主イエスは、そのことを「神に対して生きる」、或いは「神にあって生きる」と言い表された。その意味を理解するには、キリストの十字架の死と、死からの復活を心に刻むこと、それが大事と、予め告げられたことになる。44節の問い掛けは、「これから後に、わたしの身に起こること、それを決して見逃さないように・・・」との、敵対者に対しての思いやりも込められていたと考えられる。
そして、そこにいた弟子たちに対しては、その時は分からなくても、後になって思い返すなら、全てが明らかとなるよう、実に丁寧な論証を、予め示しておられたことになる。民衆の中にも、その教えを聞いていた者たちがおり、ペンテコステの日にペテロが人々に語った時、多くの人が心を動かされることになった。弟子たちも、そして民衆の多くも、聖霊の働きによって、復活の主イエス・キリストこそ信ずべき方、信ずべき神、この神に従いたいと、心から願うように導かれるのである。イエスご自身には、受難週の一日また一日、死が確実に近づいていた。私たちは、主が味わわれた緊迫感を想像も理解もできない。父なる神に捨てられ、罪人の身代わりの死を遂げること、その悲惨はいかばかであろうか。けれども、イエスご自身も詩篇の言葉によって、復活の望みに拠り頼んでおられたのである。聖書を知ること、そして、神の力を正しく知ること、それが私たちの慰めであり、確かな拠り所と、改めて教えられる。
<結び> 十字架の死から復活された主イエスは、約束のメシヤ、キリストとして天に昇り、神の右の座に着かれ、今も生きておられる。そのキリストの支配は全世界に及ぶとしても、その支配の恵みを心から喜ぶ者は誰であろう。私たちは、キリストが今も生きておられ、私たちのために執り成していて下さること、どんなことがあっても見捨てることなく、見守って下さることを感謝する者でありたい。
私たちは、この地上である期間、他の動物たちと同じように、ただ生きるのではなく、復活のキリストを信じて、神に対して生きるのである。その命は、一時的なものではなく、永遠に繋がる確かな命である。その確かな日々を、今も生きておられるキリストを信じる信仰によって、より豊かなものとされるように祈りたい! |
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