礼拝説教要旨(2011.09.18)
主イエスへと導く養育係
(ガラテヤ3:19〜26)説教者:高橋善樹教師試補

 今日の聖書箇所でパウロは、律法を行うことで義と認められることは決してないが、律法には、人にイエス様を必要とする心を強く起こさせ、イエス様を信じる者へ導く“養育係”としての大切な役割があることを明らかにします。
 神様はこの“養育係”を用い、イエス様を通して、人々をアブラハムの信仰の子孫とされ、アブラハムを“多くの国民の父とする”という、約束を果たされます。「律法とは何か」ということを中心に3つのことを教えられたいと思います。

1、まず、「律法」の基本的な性格と意味をもう一度覚えたいと思います。
 「律法」は、神の民が、地上にありながら神の前に、どう生きたらよいのか、神様のみこころを現わすことば全体を指しています。
 律法のことばの表現は、モーセの律法(出エジプト記20章)について言えば、確かに、「〜してはならない」とか、「〜せよ」という禁止あるいは命令のかたちを採っていますが、もともとは、神様に選ばれ、愛されている民であれば、当然、みこころである律法を守り行うであろうという期待と信頼を前提として、与えられているのです。たとえば、モーセの律法の第一戒と第二戒の初めはこうあります。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記20:3,4b)。直訳しますと、“ありえないであろう、あなたに他の神々があることは、私の前にあって。あなたは造らないであろう、あなたのために刻んだ像を”となります。
 ですから、律法そのものは、人が律法によって義とされる、正しいものと認められる基準という性格はないのです。ところが、ユダヤの伝統は、律法を人間が行い守れる形にして、義とされる基準としたのです。これが“律法主義”です。
 イエス様もパリサイ人、律法学者たちに対してこう言われています。
「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。・・・・あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにし、・・・・神のことばを空文にしています。」(マルコ7章)

 私たちは、“律法主義”をユダヤの伝統ことであり、私たちにはありえないこととしていないでしょうか。たとえ、律法を義とされる基準としないまでも、律法を自分の努力・がんばりで行い、神のみこころにかなう者となりうると少しでも思うことはないでしょうか。自分の胸に手を置いて振り返ってみたいと思います。
 さらに、私たちは、たとえ律法を守り、行うとしても神様が求めておられるように、満たすことは出来ないという現実を受け入れなければなりません。律法の一点一画もすたれることなく(マタイ5:18)、心を見られる神様(同28節)の前で律法を満たすことは到底、出来ないという現実を、です。
 しかし、私たちは、神様から、律法を満たすことを求められています。イエス様なしに、律法の前に立つことは出来ないことを改めて覚えたいと思います。

2、次に、律法の“養育係”としての役割と働きを覚えたいと思います。
 パウロは、ローマ書でこう言っています。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)。あるいは、「律法によっては、かえって罪の意識を生じるのです。」(3:20)
 パウロは、こう言っているのです。人間は、アダムの犯した罪(原罪)を負って生まれ、この原罪の故に、地上の歩みにおいて現実に罪を犯す(現罪)存在である
こと、そして律法は、この両方の罪を明らかにしあばいているのだ、とです。
 しかも人間は、神のひとりのようになり、「善悪を知るようになった」(創世記3:22)者として、神を恐れず、罪人であることを忘れ、罪をおおい隠して、生きています。この人間の性質に対して神様は、みこころとされる生き方を律法において示すことによって、罪人である人間の真の姿を明らかにされているのです。これが、律法の一つ目の役割と働きです。
 もう一つは、イエス様を指し示し、イエス様へと導く役割と働きです。イエス様は、十字架においてこの罪人の死を死んでくださり、律法が罪をあばき、罪を追及して止まないことから解き放ってくださるとともに、復活においてみこころの生き方(律法)を満たしてくださっています。(ローマ4:25参照)
 律法は、このイエス様を限りなく指し示し、イエス様へと導くのです。「ここに罪から救ってくださる方がいます。イエス様を信じなさい。」とです。
 私たちは、パウロのすすめにしたがって律法を正しく理解し、感謝しつつ受け入れてまいりたいと思います。パウロはこう言います。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。・・・私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。」
(ローマ7:12,14)

3、最後に、この養育係である律法を私たちの信仰生活において、どのように受け入れ、歩めばよいのかを教えられたいと思います。
 私たちは、律法の前に泣くという経験があるでしょうか。たとえば、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という戒に対して、自分がいかにほど遠く、求めに堪え得ない者であることがあらわにされるという経験です。たとえば、自分のそして家族の幸せなどを願う場合に、お金、才能、名誉といったほかの神々が心の中にいることに気づいて愕然とし、悲しく、うなだれてしまうような経験です。
 私たちは、律法と真剣に取り組むことなしには、自分の罪の深さはわかりませんし、イエス様の十字架のありがたさを深く知ることは決してありません。私たちは、パウロの切実な経験を改めて覚えたいと思います。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:24−25a)。パウロは、律法を行うことに懸命に取り組み、自分の罪の深さを知って絶望し、律法に泣き、イエス様に救われたのでした。私たちもパウロの救いに連なる者でありたいと願います。最後にモーセの十戒の前に改めて立ちたいと思います。出エジプト記20:2−17です。