ローマへの納税の是非を巡って、イエスを窮地に陥れようとした者たちは、「カイザルのものはカイザルに・・・、そして神のものは神に返しなさい」との答えに、何も言えず退くしかなかった。祭司長、律法学者たち、長老たちと言われる指導者たちは、それぞれ考え方の違いがあり、生き方の違いがあったが、イエスに立ち向かうため、互いに手を組んでいたようである。今度はサドカイ人たちがイエスの前に進み出た。彼らはやや穏やかに、「復活」を巡って論争を仕掛けようとした。
1、「復活」について、当時、多くの人は、人が死後も何らかの形で存在すること、そして「復活」することを信じていた。けれども、民の指導者たちの中で少数派であったものの、大きな力を得ていたサドカイ人たちは、死後の霊魂不滅についても、「復活」も否定していた。その彼らが、「復活」があるのなら、こんなとんでもないことが起こるではないか、一人の女が、律法の定めの通りに結婚したとして、もっと不幸が身に降りかかるのではないか・・・、と問い掛けた。結婚しても夫に死なれ、その兄弟と次々に結婚した後、自分も死んだ女の人は、復活の時、一体誰の妻なのか・・・?(27〜33節)そこまで求める律法が、果たして妥当なのか、そして、その通りにすると、とても変なことになる、とばかり論争を挑んだ。(※申命記25:5)
先の納税論争を仕掛けた中心は、パリサイ人たちであった。彼らは「復活」を信じており、(使徒23:8)今度の論争はサドカイ人たちに任せた。イエスに敵対する者たちは、自分たちの主義主張をある意味で棚上げし、イエスに立ち向かうこと、この一点で手を結んでいた。その姿は不気味である。しかし、人は必ずそのような愚かさを繰り返す。真理に目を閉じる時、必ずのように偽りが手を携える。旧約聖書の時代、神の民イスラエルは、苦難の日に神を呼ぶのではなく、異教の民の力を頼んでいた。そして異教の神々に仕えようとさえした。神を退けようとして、人はとんでもない道を選び採るものである。同じような過ちを、人類は歴史を通じて繰り返している。
2、この時、主イエスは、いささかもたじろぐことはなかった。彼らが戸惑う「復活」について、あれこれ説明したり、説得したりすることなく、正しく信仰の目を開くようにと語られた。「この世」の視点と、「次の世」の視点を混同することなく、来るべき「次の世」のことは、全く別の世界であることに気づくように、と語られた。(34〜36節)「この世」で結婚することは当たり前でも、「次の世」でも結婚があると考えるのは、私たち人間の考えである。「次の世」では結婚はなく、死もなく、「死人の中から復活するにふさわしい、と認められる人」は、「御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです」と言われた。主イエスは、聖書をよく知るように、そして神の力、神の成さることを思い返しなさいと答えられた。(※マルコ12:24〜27)
聖書をよく知るようにとの指摘は、出エジプト記3章6節についてであった。神がご自身のことを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗られたことに触れて、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです」と言われた。アブラハム、イサク、ヤコブについて、彼らは皆、今も生きている、そのことを明言された。彼らは死んでしまった過去の人ではない、復活の命に生きている者、そのように聖書は語っている、と言われたのである。人が、神との関わりで生きているのか、神と無関係に生きているのか、その違いがとてつもなく大きい。本当の意味で生きているのか、ただ息をしているだけなのか。
3、「神に対して生きる」のか、神から離れて生きるのか、その違いである。「神に対して」は、「神によって」とも訳される。「神によって生きる」なら、確かに神がおられ、その神によって生かされていると悟って生きるなら、その人は、「次の世」で「復活するのにふさわし」人と認められる。その人は、確かに「神に対して生きる」人である。命の源である神を信じているか、その神との関わりをもって生きているか。ようするに、人がただの動物の一種として生きているのか、そうでないのかに気づいているか、と問われている。自分で考えられることだけで考えるように、私たちは慣れ親しんでいるが、聖書が語っていること、神がおられること、生きて働いておられること、そこに立つかどうかが肝心なのである。(※ルカ12:21、ローマ6:10、11)
生ける真の神は、「神に対して生きている者」にとって、確かに神であられる。もちろん、万物の創造主であり、全ての人にとっての神であられる。けれども、神を認めず、神を信じない者は、必ずのように、「どうして自分が神を認めなければならないのか」と、強弁する。彼らは、「神がいるなら、何故、人に不幸がつきまとうのか。どうして、善人が不慮の死を遂げねばならないのか」と、問い続けるのを止めない。人が、神に対して生きるのか、それとも、神とは無関係に生きるのかによって、答えが全く違ってくる。私たちが、もし思い違いをしているなら、視点を正して、「神に対して生きる」ことを心に刻み直したい。「神に対して生きる者」として、確かに歩ませていただきたい。
<結び> この復活論争は、結婚を巡るものであった。「結婚」というテーマは、永遠のものである。世の始めより、神は人を男と女に造られ、一人の男子と一人の女子が結ばれる、神聖なものとして定められた。この結婚を、神が定められた神聖なものと受け留めるのか、それとも、人間も他の動物とさほど違わないものとして、いい人に巡り逢いたいと願うのか、その差はとてつもなく大きい。(※「就活」「婚活」「妊活」・・・)
神に対して生きることは、この地上の日々の全ての事柄に当てはまる。キリストを信じ、キリストにあって、今生きているなら、私たちは、「神に対して生きている」のであって、既に復活の命に生きている。神に対して、本当の命を生きていることになるのである。そのことを見失うことないように、そのために、この世で、自分の知識や力を頼むことなく、聖書をよく知り、神の力を、一層よく知ること祈り求めたい!!
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