礼拝説教要旨(2011.09.04)
神のものは神に
(ルカ 20:19〜26)

 主イエスが語られた「ぶどう園の主人と農夫のたとえ」は、自分たちのことを指していると分かった民の指導者たちであった。けれども彼らは、自分たちの間違い、神に対する背きの事実には、全く気づかなかった。主イエスに対する敵対心を、決して緩めようとはしなかった。何とかして捕らえたい、亡き者にしたいと願いつつ、民衆の反発を恐れていた。それでも、また次の手を打とうと、今度は「義人を装った間者」を送った。いかにも敬意を払っているかのようにして、イエスの言葉じりに付け入ろうとした。(18〜19節)

1、イエスに対しては、もうどうにも我慢がならない・・・という苛立ちを抱きながら、民衆を敵に回したくないというジレンマがあった。懸命に策を練ったのであろう。自分たちだけでは手が出せないので、今度はローマの官憲の力を借りようと考えた。総督に引き渡すには、ローマに対する反逆の罪を着せればよいと、納税論争を仕掛けたのである。もしイエスが、納税賛成であれば、民衆の心が離れるに違いない、他方、納税反対ならば、その時はローマの総督に引き渡せる・・・。彼らにとっては、願ったりの名案であった。間者たちは、したり顔でイエスに語り掛け、いかにも教えを請うそぶりをして、ローマに対する納税は、律法に叶っているのか否か・・・と尋ねた。(21〜22節)

 その当時のユダヤ人にとって、ローマに納める税金の額は、年一デナリであった。14歳から65歳までの成人男子がその対象となるが、金額が重いわけではなかった。けれども、ローマに税を納めることを、屈辱と感じる者がおり、当然と思う者もおり、無関心な者もいたという。民の指導者たちは、どちらかと言うと、ローマ官憲の許可の元に宮を管理していたのであり、ローマに協力しつつ、自分たちの立場を保っていた。この世での地位も名誉も、そして富も、実はローマに保証されながら、それが今イエスによって脅かされていると、大いに焦っていたのである。

2、この世の権威に対して、神の民はどのように服するのかという課題は、何時の時代でも、かなり難しいものである。誰もがジレンマに陥り、白か黒かと割り切るのは容易ではない。それでも間者たちは、イエスに納税反対と言わせたかったようで、イエスご自身はその魂胆を見抜いておられた。そして「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。・・・」と、その銀貨に刻まれた肖像と銘を確かめさせた。彼らが「カイザルのです」と答えると、主イエスはすかさず、「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と、ズバリ答えられた。民の指導者たちは、その答えに対して、それ以上何もつっこむことはできなかった。(23〜26節)

 「カイザルのものはカイザルに・・・そして神のものは神に返しなさい」という言葉は、主イエスの教えの中でも、多くの人によく知られている。短い言葉の中に、大切な教えが込められ、一度聞いただけでも耳に残り、心にも刻まれる。この世で生きるに当たり、私たちには、確かに、この世で果たすべき責任がある。理屈抜きに、果たすべきことは、迷わずに果たさねばならない。時折間違うのは、神を第一とすることを掲げて、この世の責任を後回しにしてもよいと、勝手に思い込むことであろう。民の指導者たちは、イエスがそのように答えるに違いないと、そう思い込んだようである。しかし、主は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われた。

3、その上で「神のものは神に返しなさい」と、明言しておられる。この世にあって、「神のもの」が確かにあること、それは「カイザルのもの」とは別のもの、もっと大きな大切なものがあることが暗示されている。この時、主は民の指導者たちに向かって、鋭く問い掛けておられた。「神のものは神に返しなさい。」彼らには、「神のもの」を「神に返していない」こと、そのようなものが実際にあるのではないか、あるいは、「神のもの」とは気づかずにいることが多々あるのではないか・・・と。彼らは、主人の「愛する息子」を殺し、「ぶどう園」を自分たちのものにしようとしていた。宮を「強盗の巣」にしていたわけで、主はそのような罪に対して迫っておられたことになる。

また指導者たちだけでなく、民衆がそこにいたので、全ての人に、「神のもの」は何であるか、それぞれが考えるように迫っておられた。自分が神にお返しすべきものを、どれだけ受けているのか、何か気づいているか、それとも気づかずに通り過ぎているか、よくよく考えてみなさい・・・と。すなわち、私たち人間がこの世で生きている時、自分が手にするものについて、その出所をどれだけ考えているのか、そのことを主は問うておられた。果たして、自分のものと言えるものがあるか、それとも自分のものは「ない」と知っているか。神から与えられたものと知っているのか、それを尊く用いているか、感謝し、心を低くして生きているのか・・・。(※私たちの「いのち」は・・・?)

<結び> 私たちは、神が確かにおられることを、心から信じているかどうかが問われている。神がおられることを知らないまま、いや知っていても余り心に掛けないまま過ぎていることはないか。神が私たち一人一人に、よきものを与え、しかも豊かに与えて下さっていることを、心から感謝して生きているであろうか。私たちは、この地上の日々の生活において、神から多くのものを与えられ、豊かに祝福され、支えられていることを、もっともっと心に留めることが大切である。もっともっと心を低くすることが、私たちに求められているのに違いない。主イエスは、天の父こそが真の神、全てのよきものの源であることを、全ての人に知ってほしいと、この時も願っておられたのである。私たちこそ神を喜び、確かに神に従う歩みが導かれるように!