エルサレムに入った主イエスは、最後の一週間の貴重な一日一日を、宮で民衆に教えを語り、そこに割り込んでくる民の指導者たちと対峙しながら過ごしておられた。注意深く教えを聞く者には分かるように、わたしこそ神であること、約束のメシヤであり、救い主であることを告げておられた。人から聞いたからと判断するのではなく、一人一人が自分で答えを出すように求めておられた。論争を仕掛けた筈の民の指導者たちが、答えを出さずにイエスの元を去った後、そこにいた民衆にたとえをもって話し始められた。ぶどう園の主人と農夫のたとえである。
1、「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところにひとりのしもべを遣わした。・・・」(1節以下)「主人」は明らかに父なる神、「ぶどう園」は神の民イスラエル、「農夫たち」とは民の指導者たち、繰り返し遣わされた「しもべたち」は、旧約聖書の時代の預言者たち、そして最後に遣わされる「愛する息子」は、主イエス・キリストご自身のことである。主イエスは、誰も誤解することのないように、はっきりとご自分のことを語り、これから何が起こるかも語っておられた。たとえで分かり易く語る以上に、ご自分が何者で、これからどうなるのかを告げていたのである。
父なる神と神の民イスラエルの関係は、このたとえが示すように、本来友好的なものであった。農夫たちは、主人から信頼されてぶどう園を任されていた。ところが収穫の時になり、しもべが遣わされると、そのしもべに侮辱を加えて送り返した。旧約の預言者たちの多くが、正しくそのような苦い経験をしていた。一度ならず二度、二度ならず三度、四度と、預言者たちは苦悩していた。ルカの福音書では、送られたしもべは三人で、一人も殺されてはいない。けれどもマタイ、マルコの福音書では、かなり大勢のしもべが遣わされ、また殺されている。主人は忍耐の限りを尽くし、最後に「愛する息子なら」と、なお農夫たちを信じ続けている。神の愛、民への愛は、かくも豊かなものであった。
2、三人のしもべが毎年、三年に渡って遣わされただけでなく、収穫できるようになるまでの年月と、その後の年月を数えると、八年以上、十年にも渡るほど、主人の忍耐があったことになる。(※レビ記19:25)そして「愛する息子」が送られる。これに対して農夫たちは、「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」とばかり、彼を外に追い出して、殺してしまった。当然主人は、農夫たちを退け、他の人にこれを託すことになる。何とも悲惨な痛ましい結末である。こんなとんでもない出来事は、誰が聞いても、「そんなことがあってはなりません」と言うに違いない。しかし、神の民と民の指導者たちは、神と神の預言者たちに対し、素晴らしい特権と自由を与えられていながら、不遜の罪を繰り返していたのである。(16節)
民衆が「そんなことがあってはなりません」と言ったのは、主人の「愛する息子」が殺されるようなこと、そんなことがあってはならないと言ったのである。それを受けて、主イエスは語られた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう・・・」(17~18節)詩篇118:22の引用で、神殿を建てる者たちが捨てて顧みなかった「石」が、神殿完成の折に、「礎の石」となって肝心な働きをしてることを歌うものである。これこそが神の業である!と。これは、主イエスの十字架の死と死からの復活を預言する言葉として知られている。この言葉の意味を、主ご自身が人々に問い掛け、この「石」の前に、全ての人の心が明らかにされることを告げられた。イエスの復活に躓くのか、そして復活の主によって裁かれるのか、誰一人逃れる者はいないと、厳しく宣言しておられたのである。
3、主イエスは、民の指導者の反発を知りつつ、民衆に語り、彼らに決断を迫っておられた。もちろん民の指導者にも聞こえていたので、彼らにも自分の心の内を探るように語り、「わたしを誰と言うのか」と問うていた。天から来たのか、それとも人から出たのか、その答えを明らかにする・・・とばかりに。天の神は、どれだけ忍耐深くて、また裁きを先送りされているか、人は、どれだけ優遇され、自由を与えられているか、そして罪深く、自分本位であることか、そうしたことが浮き彫りにされている。主人の「愛する息子」を殺してしまっては、最早裁きを免れ得ないこと、祝福や特権は他の人に与えられても、当然であると認めないわけにいかないことは、全ての人に明白である。人々は自分の答えを出さねばならなかった。
民の指導者たちは、自分たちのことが、余りにも明らかにされていると気づいていた。それでも心を開くことはしなかった。神に背いて、自分の思いを正しいとする、その罪の凄まじさがここに表れている。イエスの権威が天からのものと、ほとんど分かり、神が遣わされた「愛する息子」とも、ほとんど理解しながら、自分を神とする者を断じて許せない!抹殺する以外にない!と、彼らはそのように考えた。彼らは地上で手にした地位や富、それらを手放すことはしたくなかった。この地上で責任を負っていることについて、主人から託されていることを忘れ、自分のもの、自分の思うようにしたい、してもよい、主人の存在さえ、その内なくなる、そうすれば・・・とばかりに、大きな間違いを犯していたのである。それは神に背く全ての人の姿、そのものである。
<結び> 私たち一人一人も、今一度、主イエスを誰と言うのか、神が遣わされた救い主、神が遣わされた方、神の「愛する息子」であると、心から信じているか、自分に問うてみたい。父なる神が「愛する息子を送ろう」と、心を込めてこの世に送られた方、それが主イエス・キリストである。このたとえを話された時、主ご自身は、「わたしを信じなさい。わたしの所に来て、確かな休みを得なさい、平安と喜びを見出しなさい」と、人々に語っておられたのである。※受難週に語られている、その重さを読み取ることが大切!
自分の生活は自分でするもの、やれるもの、全ては自分の責任でやり遂げるものと強がることなく、生かされ、任されている事実を心に留めたいものである。神なしで生きられるなどと、決して思うことのないように、十字架への道を歩まれた主イエスを、心から信じる者とならせていただきたい。十字架で死なれた方、そして、よみがえって今も生きておられる方、主イエス・キリストが私の救い主、また王であると告白して、この方に従うことができるよう一層祈りを篤くしたい!
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