序. 6月の時、4章で、イスラエルがヨルダン川渡河を終えたのを見ましたが、今後、彼らはいよいよカナンの町々へと攻め入っていくことになります。しかしその前にこの5章では、その前に執り行うべきであった、割礼と過ぎ越しの祭りについて記されています。10節にある過ぎ越しの祭りは、主が、その御手をもって、イスラエルをエジプトから脱出させたことを記念し祝う祭りであります。細かな規定はありますが、重要なことは、出エジプトを記念していること、そしてこの祭りは、約束の地カナンに入った時、祝うように定められていた(出エジプト12:25)ことです。ですから、カナンに入植し、すぐに過ぎ越しのいけにえをささげる必要があったのです。
1. しかし、その前にまず2、3節では割礼が民に命じられ、行われました。と言いうのも、無割礼では過ぎ越しのいけにえをささげことができなかったからです(出エジプト12:48)。さて割礼とは、イスラエルにおいて、男子の性器の皮を切り捨てる儀式ですが、創世記17章で、アブラハムに約束の地カナンを主が与えると約束し、アブラハムが神と契約を結んだ時、契約のしるしとして割礼が命じられ、イスラエルでは男子が生まれた時8日目には、皆が行うものとして受け継がれてきたものでありました。ですから、彼らはすでに割礼を受けていたはずです。なぜここで割礼が命じられているのでしょうか。それは、4、5節に理由が示されています。割礼を受けていたエジプトから出てきた民達は皆死んで、他方、途中荒野で生まれた民達は、だれも割礼を受けていなかったのです。しかし、通常イスラエルの男子は神様との契約の故に、生まれてすぐに割礼を施されていたはずです。なぜ、荒野で生まれた民達には、割礼が施されなかったのでしょうか。6節を見ると「彼らは主の御声に聞き従わなかったので」とあります。これは、民数記14章での出来事を指しています。14章には、民達が、神の御業によってエジプトを脱出し、主が共にいたにもかかわらず、神に逆らい、つぶやき続け、神を信頼せず、約束の地を放棄して、エジプトに帰ろうとした、と記されおり、彼らが、自分たちから神との契約を破棄してしまったことがわかります。だからこそ、彼らは約束の地カナンを見ることが許されなくなった、神の民として取り扱われなくなってしまったのです。
さて、アブラハムによってなされた契約には、カナンの地を与え、その後に割礼を契約のしるしとして施せ、となっています。おそらく聞き従わず、エジプトに戻ろうとして、契約を一方的に破棄しようとした民達に、契約のしるしである割礼もまた、行うことが許されなくなったのではないかと推察されます。しかし、だからこそ7節で、彼らの息子たちを、神は起こされました。ここで民達が割礼を受けるということは、契約を放棄した出エジプトの民たちに代わって、その息子達によって、契約が回復されたことを意味し、神の民としてカナンの地を与える約束を受け継がせることでもありました。続く8節で「民のすべてが割礼を完了したとき」 とありますが、ここでは、契約の回復が完了したことが示唆されています。そして直後の9節では、割礼が完了した後すぐに、「エジプトのそしり」をあなたがたから取り除いた、と神は宣言されています。神は、このエジプトのそしり、民達が荒野で「主の御声に聞き従わなかった」ことを取り除き、その子ども達の世代に対して、契約を回復されたのです。
2. 他方、契約の回復は、新しい民達の歩みにおいても、主の御声に聞き従うことが求められることを意味していました。それは、割礼ももちろんですが、カナンの地に入って、行いなさいと命じられていた過ぎ越しの祭りに表わされています。割礼が成され、10節では、過ぎ越しの祭りが執り行われました。彼らは主が命じられていた通り、カナンの地に入って過ぎ越しをささげます。と同時に、11節ではカナンの地に入った時行いなさいと命じられていた種を入れないパンの祭りも行いました。彼らは、主の命じられたとおり、割礼、過ぎ越し、種を入れないパンの祭りを行ったのです。主に聞き従っていくための新しい歩みが、新しい世代によって始まろうとしていました。それは12節にあるマナの終焉にも見られますが、出エジプトの歩みが終わり、カナンにおける新しいイスラエルの歩みが始まったことをも意味していました。これは、13節から15節に記されている、主の軍の将の到来によっても、現されています。主の軍の将は、ヨシュアに15節で「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と語りますが、これは、出エジプトのはじまりと言える、出エジプト記3章において、主がモーセの前に燃える柴の中から、声をかけられ、その使命を伝えた時、「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(3:5) とおっしゃられたことを思い起こさせるものであります。マナの終焉があり、出エジプトが完了したすぐ後に、出エジプトのはじまりの時と同じように、ここでもヨシュアに同様の言葉がかけられているのです。まさに、カナンでの歩みが始まり、新しい世代の歩みのはじまりといえましょう。
3. しかし、13〜15節の主の軍の将の顕現の記事は、それだけが語られているわけではありません。私は、この記事はヨシュアの霊性に関わること、主への信頼を再度思い起こさせるためでもあったのではないかと思います。ヨルダン川渡河が終わり、民を導く、と言う意味では、ヨシュアの指導者としての歩みは、順調そのものでした。しかし13節で、ヨシュアは、エリコの町をどう攻めようかと思案するため、危険を承知で、エリコの近くに一人でいたようですが、通常、指揮官が一人でそのような、敵前に赴くことこと自体あり得ない話です。ここで彼は、指揮官として次の戦いに備えてはいますが、主に任された指導者としては、不自然なように思えます。ここには自分が何とかしないといけない、との思いが表れているのではないでしょうか。
そのことについて、少々さかのぼりますが、3節において、気になる点があります。それは神に割礼を命じられ、ヨシュアが民達に割礼を施すために、「自分で」火打石の小刀を作ったと記されていることです。私はここで、あえて「自分で」と言う言葉が付加されているように思えます。何万もの数であった小刀を彼が自分ひとりで作れるはずはありません。しかし記事には、あえて「自分で」作ったと記されているのです。私にはこの「自分で」という語に、主という存在以前に、「自分」というものをヨシュアがこの時点で持ち始めていたことを示しているのではないかと思えてなりません。しかしだからこそ、主の軍の将は、ここでヨシュアに現れたのだと思います。主が共にいること、そして、主が剣を持って先頭に立って戦ってくださることを、再度ヨシュアに伝えるため、主は主の軍の将を遣わしたのです。ヨシュアも、主の軍の将が現れた時、すぐさま「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」と、主に問うています。これは主の命に従うことを思わされたからでしょう。ですが、エリコ攻略のことを思案していたヨシュアは、タイミング的に、エリコ攻略のことについて、何か命じられるだろうと考えていたことは想像に難くありません。しかし15節にある主の言葉は、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」とあり、ヨシュアにとっては意外なものでした。
ですが「自分」が先行していたヨシュアに対して語られたと仮定すると、これは非常に明快な言葉です。足のはきものを脱ぐ、これは汚れたものを脱ぐことであり、これは、聖なる主の御前に立つ指導者として、主よりも前においてしまった「自分」という汚れを捨て去ることだと私は思います。主が優先して語られたことは、ヨシュアの心の問題、霊性の領域の話だったのです。それこそが、この後エリコ攻略をしていく、主の言葉に聞き従っていくための準備として必要だったことを示唆しています。
4. さて、5章では、エリコ攻略の準備として、指導者ヨシュアに対して、心の問題に関することで霊的な備えがありました。それは主を信頼すること、そしてその上で聞き従うことでした。それと同様に、民達が行った割礼と過ぎ越しにも、そのような霊的な側面、主への信頼が求められていたとも言えるのではないでしょうか。何より、割礼自体にも霊的な意味が存在しています。申命記30章6節には 「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて」と記されています。心を包む皮を切り捨てる、つまり、割礼とは、心に対して行うことでもあったのです。心の包皮を取り除くこと、これは、自らの心を神にさらけ出すことに他なりません。割礼には、そのような霊的意味が存在しているのです。さらに言えば、神に対して自らの心をさらけ出すことは、神を信頼していないと行えないのではないでしょうか。言い換えるなら、自らすべてを神に信頼して任せる、そのような状態にならないと、心を神にさらせない、つまり、割礼を受けることは、心を神に信頼してさらすことに他なりません。そして、民達には、そのような状態にあって、神に聞き従うことが求められているのです。というのも、出エジプトの民達は、神である主に信頼せず、つぶやき、逆らい、聞き従いませんでした。彼らがエジプトに帰ると言い出したのも、主に対する信頼よりも、目の前の苦難に対しての不安が勝ったからです。ですから、彼らのようではなく、信頼して、聞き従うことが、新しい民達には求められているのです。そのような意味で、神に聞き従っていくために、心の割礼が、民達には、必要不可欠なものだったといえます。
結び. 以上、5章を見てきましたが、5章において貫かれているのは、神に対する信頼、ということであります。
私たちは、今どのように生きているでしょうか。心の割礼を受けているでしょうか。民達同様に、私たちにも、心の割礼は必要不可欠なのではないでしょうか。私たちは、自らの心を神にさらし、神に信頼して生きているでしょうか。ただ律法的ではなく、神に信頼して聞き従っているでしょうか。心の割礼を受けたいものです。しかし神に信頼して、心を神にさらして、歩むことをおそろしいと心のどこかで思ってしまうことも否めません。それこそが私たちの心の包皮なのでしょう。自分達の力で取り除くことは難しいものです。しかしだからこそ、命記30章6節の言葉を覚えたいものです。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」
心の割礼は、主が成してくださるものなのです。主が私達が、主を信頼して、心を包む皮を切り捨てて、心を尽くし、精神を尽くし、主を愛して生きるようにしてくださるものなのです。自らの力に頼るのではなく、そのような主に信頼して、期待して、今日もまた歩んで生きたいものです。
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