礼拝説教要旨(2011.08.14)
平和をつくる者
(マタイ 5:1〜12)

 ここ数年、マタイの福音書とヤコブの手紙を通して、私たちは平和をつくる幸いな人とされていること、そうならば、そのように生きているだろうか、また、もっと真剣になって、上よりの知恵を求めているだろうか、等々、8月毎に思いを巡らせて来た。ところが今年は、これまでとはまた違った8月を実感している。「平和をつくる者」として、私たちは確かに生きて来ただろうか。今生きているか、そして、これからも生きて行くことができるだろうかが問われている。今こそ上よりの力と導きを願わずにはおられない。8月15日を明日に控えて、今年も聖書を開いて、「平和をつくる者」としての私たちの生き方、また私たちの使命を探ってみたい。

1、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」(3節以下)で始まる、八つの幸いの教えは、天国の民の幸いを明らかにしている。それは、「祝福を受けるには・・・・しなさい」ではなく、あなたがたは既に祝福されている、あなたがたは世の人々が驚くような生き方をしている。だから心を強くし、神の民、天国の市民として歩みなさいとの、弟子たちへの励ましであった。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(9節)も、既に神の子とされ、「平和をつくる者」となった弟子たちこそが、「平和をつくる者」として生きるようにと、主イエスの願いのこもった言葉である。生まれながらの人には無理であっても、生まれ変わった人、神の子たちには可能なこと、だから「平和をつくる者は幸いです」と。

 主イエスが、神の子と呼ばれる弟子たちに期待されたこと、それは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことであった。(44節)全ての人を分け隔てなく受け入れ、隣人を愛すること、それには敵対する者のために祈ること、そこまで心を配るように求めておられた。「敵」「迫害する者」とは、神を信じないで敵対する人々、イエスを神と信じない世の人々の全てを含んでいる。私たちを含め、人は必ずのように、「敵か味方か」、瞬時に判別しようとする傾向がある。けれども、天の父の愛は地に遍く注がれていることを悟り、その父の愛に自分も包まれていることに気づくよう、語られている。(45節以下)私たちこそ心を広くすること、神の愛に触れ続けていることが肝心となる。

2、今年の8月がこれまでと違うのは、言うまでもなく3月11日の大震災と大津波、そして翌日の原発事故によることである。原子炉が爆発して放射線が外に出たこと、その事実は、この国ばかりか世界中に、取り返しのつかない事態をもたらしている。これまでは、特別に「戦争と平和」に思いを巡らせる時を迎え、「世界で唯一の被爆国」として、戦争の悲惨さ、平和の尊さ、そして原爆の恐ろしさを世界に発信する務めを確認し合って来た。ところが今回の事故により、日本の国は、世界中を核によって汚染する加害者となったのである。「広島」「長崎」、そして「福島」と、目に見えない放射線による被曝の危険性は、私たちの理解を遙かに超えてしまった。どうすることもできないジレンマが人々を襲うことになった。

 原子力の専門家の一人が、原発事故以来、「世界は変わってしまった」と発言し、その放射線被爆の危険性を十分認識した上で、一人一人が自分の生き方を決めること、選び取ることをを勧めておられる。その方は、足ることを知ること、それが大事とも。原子力を学び始め、これは人間の手に余るもの、手をつけてはいけないものと気づかれ、原子力発電を止めることを使命とされたが、それができずに事故となったことを、心から悔やんでおられる。その思いを知って、私はどうするか、私たち教会は何を考え、何をするか、大いに心を探られている。私たちは、神に背いた人間の罪の大きさと、その深さを思い知らされる。己の分を弁えない思い上がり、これが罪の根源である。神の前に謙ること、分を弁え、足るを知ること、これこそ、聖書が一貫して教えていることである。私たちは、神の前に心を低くする者でありたい。(※箴言30:7〜9)

3、「広島」と「長崎」、二度の原爆による被害を受けた日本が、何故に「原子力の平和利用」という道を選んだのか、そして「安全神話」を信じたのか。多くの教会はこれに、どのように対峙していたのか、そして私たち自身はどうしていたのか。大半の教会は、反戦、平和を掲げ、それなりに自分たちの態度を明確にしていた。日本長老教会は「靖国神社問題」として取り組み、平和を希求する歩みをここまで歩み続けて来た。しかし「原発問題」に関しては、関心が十分ではなかったと認めなければならない。1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故後、夏の修養会で分科会にて取り上げたものの、話し合いが思うように進まなかったことを思い出す。「今ある生活をどのように考えるか」、その点で議論がかみ合わなかったのである。

けれども「原発問題」は、今ある生活をどのように考えるか、すなわち、今の生活を問い直すこと、そこから出発すべき課題と言える。実際に、今の生活を問い直すことは、なかなか容易ではない。これまで築き上げたものに反省を加えるなど、誰も好まないからである。社会が繁栄してこそ、民の平和があると、政治はそのために、経済の発展を最優先とする。そしてこの方針に対して、何らの疑問符も付けない。しかし、このことに一歩踏み込むこと、これがカギに違いない。私たちは、自分の生活を見直し、本当の意味で、神の子として生きているのか、神の子として、天国の民として、平和をつくる者として生きているのか、自分の生活を見直し、問い直してみたい。天に宝を積むこと、そのことを喜んでいるのか、それともこの地上で富むこと、そして祝福されることをを喜んでいるのか・・・。

<結び> 私たちは、何を頼りにし、何を根拠に生きようとしているか、そのことが明らかになってくる。神が与えて下さった救いを喜び、真の平和を得ているなら、その平和を回りの人々との間にも、豊かにされることを喜ぶ者となれる。この地上で、何を第一に求めているのか。どのようになることを願っているのか。神の愛に満たされ、愛に溢れて生きるなら、私たちの回りに、多くの人との愛の交わりが、一層広がり、豊かにされるに違いない。

 今月の暗唱聖句として選んだ言葉、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」との勧めを心に留めたい。その前後の言葉にも、しっかり目を留め、キリストの十字架のみ業により、私たちは罪を赦され、互いに愛し合うように導かれていることを、決して忘れないようにしたい。
(コロサイ3:12〜17)