エルサレムに入り、宮清めをした主イエスは、その宮について「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と、聖書の言葉を引用して語られた。その宮ですべきこと、それは神への礼拝であり、神に祈ることであった。それに加えて、毎日、宮で教えを語って、主イエスご自身の教えに耳を傾けること、それが大事と示された。しかし、その振る舞いを快く思わないユダヤ人の指導者たちは、早速、イエスに抗議の行動を起こすのであった。(※イザヤ56:7)
1、宮清めの激しい行動から一転して、静かに民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたイエスの姿は、ユダヤ人の指導者たちにとって、怒りの持って行き場のない、ニガニガしいものであった。イエスご自身は、ここは「わたしの家」と心を定め、熱心に耳を傾ける人々に語っておられたからである。受難週はその初めの日から、かなりの緊張の内に一日が過ぎ、その初期に、民の指導者たちは行動を起こすことになった。この宮は我々の管理下にある。だからイエスの行動は、直ちに取り押さえるべきもの、そして、民衆がイエスに聞き従うことのないよう、早く手を打たねばならないと考えた。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(1〜2節)
祭司長、律法学者たち、そして長老たちは、ユダヤ人の最高議会を構成する人々であり、エルサレムの宮を管理する責任を担っていた。けれども、その宮での礼拝は形骸化していた。その事実を思い知らされるようにして、イエスの宮清めは成されたが、彼らは決して気づくことはなかった。それでイエスに立ち向かって行った。彼ら指導者たちの間にも、主義主張の違いがあり、立場の違いがあったが、ただ一点、イエスへの抗議のためには手を結ぶのである。イエスを告発するために、何をもってするか。イエスの言葉尻を捉えて、一気に貶めるには、これに限る・・・とばかり「権威論争」を持ちかけた。それによって、「神冒涜」の汚名を着せようとしていた。自分たちの許可なしでいる限り、上よりの権威と言うに違いない・・・とばかりに。
2、主イエスは、確かにいつでも自由で、何ものにも縛られず、自由に、力強く語っておられた。当時の学者たちとは違っていた。民衆はその違いを聞き分けていた。律法学者たち、またラビと呼ばれる教師たちは、必ず教えを受けた権威の所在を明らかにしつつ語ったのに対して、主イエスは、「わたしは言います」と、「権威ある者」として語られた。ご自身がメシアであり、神の子であり、神であることを自覚しておられたのである。そのことを民の指導者たちは、実は感じ取ったので、「何の権威によって」と尋ねたのであろう。自らを神とする「神冒涜の罪」と、そのように考え、恐らく、こんな名案があった、これで我々の勝ち!とばかり、ほくそ笑んで立ち向かったのである。
主イエスの応答は見事である。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(3〜4節)ただ答えるのではなく、問い返しながら、質問者の答えを求めた。敵対者たちの心の内を見抜くことができるので、そのように反問ができたのは事実である。彼らがヨハネをどのように理解していたのか、そして、イエスご自身についても、何を考えているのか、全てを見通しておられた。こうして、民の指導者たちは、どうにも答えられないように追い込まれて行った。彼らは、ヨハネのバプテスマは「天から」とほぼ認めていた。でもそれを口には出せない。かと言って、「人から」と言うなら、民衆の支持を一気に失う。そんな危険は引き受けられない・・・と考えたのである。(5節)
3、この世の権威や権力に拠り頼む者の姿が、余りにも鮮やかに浮き彫りにされている。自分たちの権威を守ろうとしてイエスに立ち向かったものの、今や、自分たちの立場が揺らいでいた。彼らは、「どこからか知りません」と答えた。大切な真理に対して心を閉ざし、分かりません、知りません、と答えた。けれども、それはヨハネの権威について、天からと認めたことになり、イエスの権威についても、天からのものとほとんど認めたことであった。真理に対しては、どんなに逃げ隠れしても、誰も逃げることはできない。そして主は、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と、そう話された。突き放しつつ、それでも自分で答えを出すよう、その余地を残されたようである。(7〜8節)
主イエスは、ご自身が約束のメシアであり、神の御子であり、神であることを、その地上の生涯を通じて明らかにしておられた。但し、いつもそのことをそのまま語るのではなく、教えを語り、時に奇跡を行い、その生涯の全てを通して、ご自身を人々の前に現しておられた。正しく神の権威をもって、神として人々の前に現れておられた。その権威は決して人を威圧することなく、人々を恐れに閉じこめることもなく、常に愛のまなざしを注ぎつつ、恵みとあわれみに富むお方として、人々をご自身の元へと招いておられたのである。心を開いて、その愛に触れるなら、その人はほとんど例外なく、イエスの傍に近づき、その教えに耳を傾ける者となった。民衆が宮で、イエスを取り囲んだのは、そのためである。イエスの元にこそ救いがあり、慰めがあったからである。
<結び> 主イエスは、神としての権威をもって、この地上を歩んでおられた。神であることを証明することや、問われてわざわざ答えることもなく、人々が真理に心を開き、イエスの教えに耳を傾けているなら、必ず分かるように語り、そして歩んでおられた。今日の私たちも、心を開いて、その教えに耳を傾けるなら、その時、イエスを神と信じ、神が遣わされた救い主と信じることができる。民の指導者たちに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われたことは、「あなた自身で、答えを出しなさい」との、大切な問い掛けであった。私たちがこの言葉を聞く時、私たち自身も、それに答えるように求められているのである。
民の指導者たちは、その場を去って行った。私たちはどうするのか。イエスが神ご自身であるなら、このお方に心から従いたいと、心から願っているだろうか。自分に都合の良い時だけ、この方の助けを期待してはいないだろうか。この方を信じ、この方に従うこと、そのことにおいて、私たちは今一度思いを新たにしたいのである。主イエスこそ、天からの方、私たちを救うために来られた方、この方と共に歩む所、生きる所に、私たちの幸いがあると!!
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