みなさんは、できるなら変わりたいと思ったことはありませんでしょうか。「こんな自分じゃいやだ。できることなら変りたい」「自分のここが直れば、もっといいのに。」そう思ったことはないでしょうか。
私は、あります。私はどちらかというと物事を悪く考えたり、否定的に人を見るところがありました。また今と違って、無口で、喜怒哀楽を素直に出すようなこともありませんでしたし、こちらから積極的に友だちを作るようなところもありませんでした。友だちからすれば、友だちになりたいと思えるような人間ではなく、「はりねずみ」のように人を近づかせないところのある人間でした。そんな私でしたが心では何事もくよくよしないで、嫌なことを引きずらないさっぱりした明るい人になってみたい。内気でだれかと話すのが苦手な私でなく、だれとでも気軽におしゃべりできる人になりたいと思っていました。
みなさんは、自分が変わりたいと思った時にはどんなことをなされるでしょうか。私はこんなことをやりました。新しい服を買って着る。髪型を変えてみる。何か新しいことを始めてみる。本をたくさん読む。それをした時は、いつも少し変わったように思いました。しかし時間とともにすぐにもとの自分に戻ってしまいました。人は変わらないんだ。変えようとしてもだめなんだ。諦めるしかないんだそう思いました。
そんな私でしたが、クリスチャンになり、1つの聖書の言葉に出会いました。それが今日の聖書の言葉です。私がクリスチャンになって最初に覚えた聖書の言葉でもあります。また今でも時々思い出しては、慰めと励ましをいただいている言葉です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら」・・・・・イエス様を信じる人ならだれでもということです。あの人は良いけど、この人はダメということがないということです。どんな問題児であろうが、どんな弱さやどうしようもない欠点を持っていようが、「イエス様、私をお救い下さい」と願う人は「だれでも」という意味です。ですからああこんな私だってこの中に入れてくださっていると思いました。
「・・・その人は新しく造られた者です。」・・・・・イエス様を信じる人はだれでもが、新しく造られた者だと言っています。驚きです。それはちょうど、粘土でつくった人形をもういちど練り直して、新しく造り直したようなものです。それで聖書は「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とも言っているのです。
この新しさは、自然に生まれる新しさではありません。神様がしてくださった新しさです。昨日脱いだ洗濯物は、新しい日である今日目が覚めたらきれいになっていましたでしょうか。新しい日になっただけでは、汚れた洗濯物はきれいにはなってはいなかったはずです。だれかが洗濯しなければ、どれだけ新しい日がやってこようがきれいになりません。そのように私たちも何年たとうが、それだけでは変わりません。しかし神様が変えてくださるから、新しくなれるのです。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」・・・・・私は「すべてが新しくなりました。」という言葉の不思議さをまだ十分わからないこところがあります。イエス様を信じてクリスチャンになった自分とそうでないときの自分では見た目では変化がわかりません。私には直したいところ、変わりたいことがいっぱいあります。しかし、神様は確かに変ったよ、ちょっと変わったでなく、まったく変ったよといっておられるのです。古い私はもうなく、新しい私になったよと言っておられるのです。
神様がイエス様によって私たちを変えてくださるのは、おおよそ次ぎのような順番を通るようです。まず立場とか身分が変わる。次ぎに考え、思いが変わる。そして最後に性格、態度や生活が変わるようです。
1.立場とか身分が変わる
イエス様を信じた者は神様の子供とされます。その時はまったく神様の子供らしくありません。まだ神様のお考えも教えも一部しか知りません。それでもイエス様を信じた時、神様は私たちを神様の子供としてくださるのです。身分や立場がすっかり変わります。
2.考え、思いが変わる
イエス様を信じて神様の子供とされても、最初は何もできません。しかし御言葉に教えられることによって、まず考え方、見方が変わってきます。何が大切であるか、何を第1にしなければならないかわかってきます。しかしそれでもまだわかってもできないことが多いのです。どうして神様の教えのように生きられないのかと悩むのはこの頃です。
3.性格や態度、生活が変わる
そして、信仰生活をおくるなかで、御言葉により養われて、話す言葉、態度、生活そして性格といったところまで変りはじめます。これは大変時間を必要とし、なかなか変わることが難しいところです。この世では完全に変わらないようです。しかし天国では、だれもが完全に変えていただけます。
最後にくれぐれも、自分ばかりを見ないでいただきたいと思います。クリスチャンになってもう何年も経つが、どうして自分はだめなのだろうと自分を見てがっかりしていただくために、今日のお話をしたわけではありません。私は十字架にかかったイエス様を仰いでいただくために今日のお話をしました。
自分の弱さや欠点を人にあげるほどあっても、イエス様を信じる人を神様は愛されています。多くの弱さや欠点があってもイエス様を信じる人は、神様の子供なのです。そして今は弱さや欠点があっても、たとえ今は直らなくても、神様の愛は変わりません。天国ではすべての人が完全なものにされるのです。
今日の説教題を「だれでも新しい人になれる」とつけました。聖書は言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5:17)この御言葉はイエス様による圧倒的勝利を語っています。
今少しぐらい弱さや欠点があってもいいじゃありませんか。努力してもなかなか変わらないところがあってもいいじゃありませんか。イエス様によって、私たちは神様の子供とされているのです。古い人から新しい人に完全にされているのです。自分を見ないで、イエス様を仰ぎましょう。
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