礼拝説教要旨(2011.07.24)
イエスの憤り
(ルカ 19:45〜48)

 エルサレム入城の前、「都を見られたイエスは、その都のため泣いて、言われた。・・・」都にいる人々の頑なな心の中を思って、主イエスは涙を流しておられた。平和のことを知らず、神の訪れの時を知らないこと、その心の頑なさは、何時の時代でも、神の裁きを招く他のない、人の罪の姿である。その後、イエスはエルサレムの町に入り、宮に入られた。その時、真っ先になされたこと、それが「宮清め」である。イエスの生涯の中で、その激しい憤りがほとばしり出る、珍しい出来事であった。

1、ルカ福音書は、都を見て泣かれた嘆きを記し、その続きに宮に入って、「商売人たちを追い出し始め」と、憤りの感情を抱かれたことを記す。神の裁きを招くほどの頑なさを見せながら、同時に、そんな危機感を全く感じてもいない人々の様子に、憤りや怒りを覚えないではいられなかった、そんな主イエスの姿である。但し、その記述は他の福音書に比べ、いかにも簡潔である。商売人たちを追い出して言われた言葉、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」を記すのみである。その時のイエスの顔が、どんなに激しい憤りを含んでいたのか、また身体全体でどのように振る舞われたのか、私たちの興味や関心は膨らむばかりである。(45〜46節)

 「商売人たち」とは、それぞれ合法的にその仕事を任された、両替人であり、いけにえの動物を扱う人たちであった。遠くから旅をしてエルサレムにやって来る巡礼者にとって、宮に納める貨幣の両替も、いけにえの動物を宮で買い求めるのも、どちらも好都合であった。それらは皆、神殿礼拝に欠かせず、そのために宮そのものが賑わいをみせていた。その両替人の台、鳩を売る者の腰掛けを、イエスは「倒された」わけで、やはりかなり激しい動きをしておられた。(マタイ21:12)また、商売する人々が、宮を通り抜けて器具を運ぶのを拒むように、全身を使った阻止行動も取られたようである。(マルコ11:16)そして人々を追い出すのに、細縄でむちを作り、それを振り回されたようである。(※ヨハネ 2:15)イエスがどんな顔をして、その憤りを表しておられたのか・・・。

2、主イエスは、宮について、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」との言葉を引用された。(イザヤ56:7)「祈りの家」とは、人が神に向かう礼拝の場所であることの指摘である。それを「強盗の巣にした」とは、合法的に認められながら、不当な利益を得ている商売人に対しての憤りを込めつつ、形骸化した礼拝への叱責であった。礼拝の場であるから、それに相応しく静粛にするようにというより、そこで捧げられる礼拝そのものに対し、本質的な問い掛けをしておられたのである。すなわち、合法とされた商売そのものを追い出していたこと、そして、主イエスご自身が、宮を「わたしの家」と主張しておられること、これらに注目すべきである。動物を犠牲としてささげる神殿礼拝そのものを終わりにする方、そのイエスご自身が「宮清め」をしておられた。本来の姿から遠く離れた礼拝に対して、憤っておられたのである。

 そしてその日から、「イエスは毎日、宮で教えておられた。」(47〜48節)「祈りの家」であるべき宮で、主イエスは人々に教えを語られた。神に祈る場所である、神の宮で成すべきこと、それは祈りとともに、イエスの教えに耳を傾けることであった。宮に集まる民衆が、「熱心にイエスの話に耳を傾けていた」ので、イエスに敵対する者たちは、妬みとともに殺意を抱きつつも、どうすることもできないでいた。イエスご自身が、この宮は「わたしの家」であり、「祈りの家でなければならない」と言われたように、宮の主人として振る舞われたのである。主の宮でこそ、神を礼拝し、神に祈り、神の教えに耳を傾けること、その教えに聞き従う者が起こされるように・・・と。

3、それにしても、「それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」との抗議の言葉は強烈であり、刺激的である。「祈りの家」が「強盗の巣」となる、その凄まじい様はいかばかりか。礼拝の場が「強盗の巣」にも成り変わることを、主は認めておられたのである。このことを指摘するのに、預言者エレミヤの言葉を引用しておられた。エレミヤの時代、神の民イスラエルは偽りの教えに聞き従い、神に背を向けつつ、それでも神殿で神に礼拝をささげ続けるという、そのような状態であった。礼拝は形式化し、豪華にはなっても、中身がないものとなっていた。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。ー主の御告げー」(エレミヤ7:11)

形の上では礼拝をささげていても、その礼拝が礼拝でないことがある。他の神々に従いつつ、生ける真の神の前に出て、「私たちは救われている」と言うまでに、礼拝が形骸化している・・・と言うのが、預言者エレミヤを通じての神の叱責であった。定められた律法に従おうとする余り、主の宮に来て礼拝しているので大丈夫と、本当の意味で神に従うことを疎かにする過ちは、何時の時代も繰り返す。神が人の心を知っておられることを棚上げし、人の目に見えることを優先する、形ばかりの信仰が幅をきかすからである。旧約聖書には、そのような偽りに対する厳しい警告が繰り返されている。(ホセア6:6、アモス5:21ー24、ミカ6:6ー8) 礼拝する者の心が、本当に神に向いているか、本気で神を信じ、神に祈っているか、そのことを主イエスは強く問い掛けておられたのである。

<結び> 主イエスが憤られたのは、礼拝が礼拝でないことにあった。神礼拝のために集っていても、その実、自分のためであったり、自分勝手に安心や喜びを得るためであったり、そのような過ちは、私たちも陥ることである。このことは、私たちが「主の日」に公の礼拝をささげる時にも、やはりよくよく注意が必要であると、改めて気づかされる。「祈りの家」に来て神に礼拝を捧げるとしても、その一時のみ、神の前に出ているとするなら、大いに反省が求められる。すなわち、もし一週間の大部分を、神を忘れたままで過ごしてしまうなら、それは大きな過ちを犯すことになるからである。

 私たちは心して、人生の全時間を神と共に歩む、その歩みが尊いことを覚えたい。そして、主の日の礼拝に、神が私たちを招いて下さっていること、そこで主イエスの教えに耳を傾けること、そのことを大切にしたい。主イエスの憤りを招くことなく、主イエスと共に歩むことの幸いを、心から喜ぶ歩みが導かれるよう祈りたいものである。そして主の日毎に、真実な礼拝を捧げることが導かれるように!