礼拝説教要旨(2011.07.03)=海外(世界)宣教週間=
ろばの子に乗る王
(ルカ 19:28〜40)

 エリコの町で「ミナのたとえ」を話された主イエスは、更にエルサレムへと道を進まれた。それは、上りあり下りありの、決して楽な道のりではなかった。「オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、「なぜ、ほどくのか」と尋ねる人があったら、こう言いなさい。「主がお入用なのです。」』」エルサレムをいよいよ前にしてのことであった。(28〜31節)

1、エルサレム入城の出来事を、四つの福音書がみな記している。そして三つの福音書がこの出来事を、群衆の「ホサナ、ホサナ」との大歓声に迎えられた、「勝利の入城」としている。けれども、ルカ福音書の記述に「ホサナ」の歓声はなく、まだエルサレムには到着していない。主イエスのエルサレム行きを丁寧に記し、入城前のことに注意するよう記している。主は、ミナのたとえによって、ご自分が「王」であること、しかも、拒絶される「王」であることを示しておられたが、その続きとなる形で、ご自分を人々の前に示そうとしておらされた。理解できる人には分かったとしても、理解できない人、また理解しようとしない人には分からない、そんな形で、ご自分を現そうとされたのである。イエスご自身が「王」であること、「メシヤ」であることを!!

 「向こうの村」はベテパゲであった。そこに行って、つながれている「ろばの子」を「ほどいて連れてきなさい」と言われたが、主イエスは、まだ見ていないこと、この先にあることを見通す方、全てを知っておられる神であることを明らかにしておられた。また、「まだだれも乗ったことのない」ろばの子と告げ、他の誰も乗っていないろば、他の用に使われていないろばを、ご自分の用に充てようとされた。それは、ご自身の神聖さを示すためであった。そして、誰かに「なぜ・・・?」と問われたなら、「主がお入用なのです」と言うよう命じられた。ろばの本当の持ち主である「主がお入用!」との、強い受け答えを弟子たちに命じ、その通りに、全てのことが運んだのであった。使いに出された弟子たちは、イエスが話された通り、ろばの子がつながれていて、それをほどいて、イエスのもとに連れて来ることができた。イエスが誰であるか、これまでのことを踏まえ、その理解が定まりつつあった。(32〜35節前半)

2、弟子たちがイエスを「王」と認めること、また「メシヤ」と信じることには、なお十分ではないものがあった。けれども、エルサレムへの旅、その間に語られた教え、そして直近のたとえ等から、イエスが「王」としてエルサレムに向かっておられることを理解した。そこで彼らは、「そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。」(35節後半)彼らは、イエスがろばの子に乗る王であり、約束のメシヤであると信じたので、この方に服従する思いを込め、ろばの背に上着を敷いた。(ゼカリヤ9:9〜10)その行為は王に対する敬意と服従の表れであった。その思いは更に、道を進む時、その道にも上着を敷くことになって表れた。エルサレムに向かう道々、このように率先して上着を敷いたのは、弟子たちであり、ガリラヤから一緒について来ていた「弟子たちの群れ」であった。(36〜37節)

 主イエスは、「ろばの子に乗る王」としてご自分を人々の前に示され、弟子たちは、そのことを理解し、これまでに見たこと、聞いたこと、主イエスが成された「すべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め」た。その賛美の歌が、「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に」であった。詩篇118:26によって、弟子たちは、イエスを王として迎えるだけでなく、人々にも、その王の祝福に与るよう招いていたのである。この方の祝福が遍く広がることを、またこの方の平和がもたらされるようにと。ろばの子に乗る王は、確かに「平和の王」であり、決して戦いの王、力の王ではなかった。

3、やがてエルサレムに入ると、群衆もまたその歓喜の輪に加わるが、その前に、反対者たちは異議を申し立てていた。パリサイ人のうちのある者たちが、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください」と。彼らは何を恐れていたのか。イエスの人気を妬むとともに、ローマの官憲から睨まれるのを恐れたのである。騒ぎが大きくなって、そのためにエルサレムの平穏が破れるのを心配したと考えられる。しかし、「イエスは答えて言われた。『わたしはあなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』」弟子たちの叫びは、正しいもの、止めさせることのないものであった。もし、誰かが制止するなら、石が叫ぶほどに、イエスご自身は神であり、王であり、約束のメシヤ、平和をもたらす王なのである。(39〜40節)

主イエスは、弟子たちの思うこと、成すこと、叫ぶこと、それら全てを良しとしておられた。彼らが信じて行ったこと、それらは、いつも完全とは言えず、むしろ不完全、不十分、無理解、時には的はずれなことが多かった。けれども、今、ろばの子に乗る王としてご自身を現しておられた時、弟子たちの行為の全てを肯定し、これを喜んでおられた。そのことは、今日に至るまで、主イエスが誰であるか、この方をどのように信じるか、そしてこの方にどのように従うかを、全ての人に問うているのである。ろばの子に乗る方を、確かに「王」と認めるのか、その方を「平和の王」「平和の主」と、心から信じて従うのか、そのことを問い続けている。あえて、世の人々の思いとは違った形で、問い掛けていると言える。

<結び> ろばの子に乗る王は、確かに約束のメシヤ、真の王の姿であった。弟子たちは、そのような方、平和をもたらす方として、「祝福あれ。主の御名によって来られる王」と叫んでいた。けれども、人々の考える「王」、また「平和」と、その違いが明らかになって行くのであった。この世は、いつも富と力を頼みとし、本当の平和も、本当の幸いも、これに気づくことなく通り過ぎる。人は上からの力ずくの平和に憧れる。しかし、主イエスは、ろばの子に乗っておられた。歩いている人々とほとんど同じ目線だったのではないだろうか。力による平和ではなく、戦いが止んだ後に、「柔和」をもって治める王として来られる方として。(※マタイ11:28以下)

 主イエスは、このように自己主張しておられたのである。神であり、王であり、メシヤであることを。力ではなく、富でもなく、柔和な心をもって人々を招く方として、ご自身を現しておられた。この方を最初の弟子たちと共に、私たちも心からお迎えし、この方に従うことを喜びとする者でありたい。そしてこの方に従うことが、どれ程の喜びであるかを告げ知らせる者とならせていただきたい。※宣教週間に当たって、教会が何を伝え、何を証しするのか。この世がどんなに力や富を求めたとしても、私たちは、「ろばの子に乗る王」を誤りなく証しし続けることを、何よりも大切にしたいのである。