エリコの町で、主イエスはザアカイに向かって、「きょう、救いがこの家に来ました。・・・」と告げられた。その時、家の周りには、大勢の人が集まり、次は何があるのか、聞き耳を立てていたようである。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。」(11節)「神の国の到来」について、ここでも人々は、その期待に胸を膨らませていた。けれども、この世の王としての「メシヤ」を待ち望んでいたので、主は、その誤解を正そうとされたのである。
1、「それで、イエスはこう言われた。『ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。・・・」(12〜14節)たとえの中の僕たちが命じられたことは、「私が帰るまで、これで商売をしなさい」と、その内容はとても明快であった。「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、後から使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った」と、何やら波乱含みである。これだけ読んだだけで、「タラントのたとえ」とよく似ていると分かる。けれども、「タラント」と「ミナ」は、その金額が大きく違っている。また十人に、「一ミナ」ずつが与えられたことは、僕たちの、責任の果たし方に違いがあることが暗示されている。
主人は、王位を受けて帰って来たとき、早速、僕たちを呼んで、その働きぶりを問い質した。(15節)「ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました」と告げた僕は、「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい」と、主人からの褒め言葉をもらった。二人目は、「あなたの一ミナで、五ミナをもうけました」と告げると、「あなたも五つの町を治めなさい」と言われた。働きに応じて、それぞれ責任が増している。そして三人目は、「ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。・・・」と。彼は、無くすことを恐れたばかりか、主人を信用せず、その命令を無視していた。主人を正しく理解せず、反対にとんでもない悪人のように言い切った。その彼は、その無為無策が、主人によって責められたのである。(16〜23節)
2、何もせず、命令に従わなかった僕の一ミナは、取り上げられ、十ミナを持っている者に与えられた。そばにいた者たちは、主人の意図を理解できないでいた。「『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」(24〜27節)主人の言葉は厳しかった。不服従の僕は退けられ、王に敵対する者は、徹底的に裁かれている。主イエスは、このたとえを語って、聞いていた全ての人の心に、強く迫っておられた。「だれでも持っている者は、さらに与えられ・・・」と。「あなたがたは、わたしの教えから何を聞いているか、そして、わたしを誰と知っているか・・・」とも。
エルサレムの十字架を目指して、主イエスは歩んでおられた。その十字架の予告は、既に三度なされ、その都度、人々の裏切りのあることが告げられていた。明らかに、このたとえは、ご自分を退ける民のことに触れている。イエスを王と認めたくない民のいること、しかし確かに王となること、そして王となって戻ってくること、その一つ一つのことは、十字架の死、死から復活、そして昇天、更には、終わりの日の再臨を告げている。全ての人が、これら一連の時間の流れの中で、それぞれ、どのように生きるのか、何をするのか、どんな人生を営むのか、よくよく考えるようにと迫られていた。十人が、それぞれ一ミナずつ与えられている。この世で生きることにおいては、特別な分け隔てはなく、果たすべき務めを与えられている事実を明らかに示している。主人の命令を心に留めて生きるか否か、神を恐れて生きるか否か・・・であった。
3、神を恐れて生きることを、具体的に考えることができるだろうかは、僕たちは、一ミナで「商売しなさい」と命じられていた。百デナリに相当する一ミナ、それは余り高額ではない元手である。それでも一ミナあることによって、一人は十ミナをもうけ、もう一人は、五ミナをもうけることができた。そして十の町、五つの町を任された。何事であれ、任されたこと、託されたことを忠実に果たすこと、それは生きる全てに当てはまることである。この世で与えられている務め、仕事、学び、家事、育児等々。また神の民、クリスチャンとして、日々の生活の中で証しする務めがあり、また家庭や職場で、どれだけキリストの香りを放っているか・・・等、いろいろなことが思い当たる。主ご自身は、忠実な人にもっと多くを任せたい、と願っておられるのである。
そして、このたとえは、私たちに警告を発している。くれぐれも、一ミナをふろしきに包んでしまった僕になることのないようにと。彼は、主人を恐れていた。それは間違った知識によっていた。「あなたは計算の細かい、きびしい方、・・・お預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから」とは、全くの誤解、言い掛かりであった。主人は、計算の細かい、きびしい方ではなく、豊かに報いて下さる方、無慈悲でも、冷酷でもなく、あわれみに富むお方である。その誤解が全てを狂わせた。神を正しく知ること、主イエスを、より一層よく知ること、それは何よりも大切である。私たちにとっても、天の父がどのようなお方であるか、神をよく知ることこそ大事と、改めて気づかされる。(出エジプト34:6、詩篇86:15、103:8)
<結び> 私たちは、このたとえから何を学んだらよいのか。主人の僕でありながら、主人を的はずれに恐れていた僕のことは、一体何なのか。そして、敵対する者に対して、「みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ」とは、何と厳しい命令かと、戸惑うばかりである。しかし、「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから・・・」との、主人の褒め言葉は、私たちも是非、聞きたい言葉である。この地上の日々において、やはり、心して生きるようにと教えられる。ともすると無為に過ごしてしまい易い私たちである。神である主の前に、心からお仕えする僕であるかどうか、喜んで従う者であるかどうか、自分に問うよう迫られている。
主イエス・キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを捨てるまで、私たちを愛して下さった。そのお方を、王として、心からお迎えし、この方から「よくやった。良いしもべだ」との言葉を、確かにいただけるよう、そのような生き方が導かれるように祈りつつ、この地上の日々を歩む者でありたい。
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