礼拝説教要旨(2011.06.19)
これらの石はどういうものなのですか
(ヨシュア記4章)説教者:枝松 律 教師候補者


 ヨシュア記3章では、契約の箱を担ぐ祭司たちが川の水に足を踏み入れたとき、主がヨルダン川の水をせきとめるという奇跡を起こし、民達がヨルダン川を渡ることが出来たと記されていました。そこには徐々に明確になっていく形で主から指示が出され、先が中々見えない形での服従が求められた民達の姿と、その民達の神への服従の態度があったことを見ました。今日はイスラエルの民たちが渡った後のことが描かれている箇所です。この4章は、とても複雑な文の構造を持っており、記事が時間の流れどおりではない形で記されていたり、繰り返しと思えるところがあったりと、少々ややこしい箇所でもありますが、主がここで語っておられることが何なのかを探っていきつつ今日の箇所を見て生きたいと思います。

1. 1〜3節では、主のヨシュアへの命令が記されていますが、これは、1節で「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき」とあるように、すべての民が渡河を終えてからの出来事だったようです。しかしこの時点で、いまだ主の契約の箱と、それを担ぐ祭司達がヨルダン川を渡ったとはまだ記されておりませんから、主の契約の箱と祭司達はいまだヨルダン川の真ん中に立っていたことになります。つまり、民達だけが渡り終わった状態だったことになります。そのような状況の中、ヨシュアへの主の命令は、部族ごとに一人ずつ、12人を選び出し、祭司達の立っているところから12の石を取って来て今夜泊まる宿営地にそれをすえなさい、というものでした。それを受けてのヨシュアの行動が、4節から7節に表されています。
 4節では、主の指示通り、ヨシュアは各部族一人ずつ、計12人を召しだしています。ここで気になることは、「あらかじめ」と書かれていることです。これは、3章12節で、ヨシュアから民達へ、「今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。」という指示がありましたが、それは何故なのか、その時は一切語られることのなかった命令でした。しかし4章に入り、5節以降において、ようやく明確になされることになります。これは、民達への指示が徐々に明確になっていった、3章の流れを引き継いでいるものとも言えます。
 5節から7節では、ヨシュアから12人への命令が下されていますが、12人を召しだしたのは、石をヨルダン川の真中にある主の箱の前から取ってこさせるためだったのです。さらに続く形で、その石をもってくる理由が、語られます。それは、それらの石が、主の契約の箱の前、契約の箱が渡るとき、ヨルダン川の水がせき止められたことの「しるし」となるためであったのです。ここでは、主の契約の箱の前、とあるように、主の契約の箱、主の臨在に焦点が当てられていますが、イスラエルの民が、それらの石を見るたびに、主の契約の箱にある主の臨在とその力、奇跡を思い起こす、そのようなしるしを、主は民達に与えているといえましょう。またこれは6節を見ると、「後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら」とあるように、後の世代のためでもあったのです。つまり、主の存在とその力を思い起こすための記念としてのしるし、それは今を生きる民と、後の世代のためのしるしだったのです。

2. 8節から13節においては、命じられた後、どのようなことがあったのかが本当に簡潔に述べられています。8節において、召しだされた12人は、ヨシュアの命じたとおり、石を持って来て、宿営地に据えたとあります。また10節に「すべて終わるまで、ヨルダン川の真中に立っていた。」とあるように、民が渡りきり、宿営地に石が据えられるまで、祭司達は、ヨルダン川の真ん中に立っていたのですが、11節では、主の箱と祭司達が、とうとうヨルダン川を渡りきります。そして祭司達を先頭にして、民達は戦いのために、それに続いた、と12節、13節では記されています。
 8〜14節にはモーセの後継者ヨシュアの権威が確かになっていったという一つのテーマがあります。そのピークが14節「その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。」であります。これは3章7節において、主がヨシュアに約束されたことの成就を表しています。
 8節では、召しだされた12人が、ヨシュアの命令どおりに、石を取って来ておりますし、9節では、ヨシュアが主語となり、ヨシュアが石を立てたとあり、主に従ったヨシュアの姿と、指導者としての責任が強調されています。10節もまた同様に、祭司達へと視点は移っていますが、ヨシュアの言葉が、主からのものであり、彼がモーセの後継者である、そのことが明確に語られています。そして12節から13節においては、すでに土地を与えられており、モーセに先頭を進んで戦うように告げられ、1章においてヨシュアにも、そのことを繰り返し告げられたルベン人とガド人とマナセの半部族が、イスラエルの民達の先頭に立って進んだとあります。また1〜3節にあるように、主がヨシュアにのみ語っておられることもまた、ヨシュアの権威を確証するものであります。これらはモーセの後継者としてのヨシュアの権威を表わしている記事であります。

3.15節から18節は、主の箱をかついだ祭司達があがったとき、つまり渡河の完了についての詳細が書かれています。ヨルダン川が割れる奇跡は、3章15、16節にあるように、契約の箱を担いだ祭司達の足の裏がヨルダン川の水に触れたときに引き起こされました。契約の箱と祭司達が、奇跡のはじめであったこと、そして、その最後もまた、契約の箱とそれをかつぐ祭司達によって終わった、とここでは語られており、時系列的には、本来、11節の時のことですが、おそらく渡河が契約の箱を中心とした聖なる行為であったことと、それを取り仕切る祭司の役割を強調するため、あえてヨシュアの権威性が描かれている箇所と分けて書かれたのではないかと思われます。

4.19節から24節には、この渡河の結びともいえるような記事が記されています。21から24節では、6、7節にもあったような、12の石についての説明が、ヨシュアによって再度なされています。ここにもまた繰り返しがあるように思えます。しかし、実際は、20節に「あの十二の石をギルガルに立てて」とあるように、石を立てた後ヨシュアによって、語られたものであり、これは、6、7節の説明に付加する形で成されているものです。4章において、石について、二度も説明がなされていること、さらに二回目はより詳細に説明が加えられていることは、石が据えられたことの理由が、いかにイスラエルにとって大事だったかを現しているものです。そしてそれは、主が成してくださったことを忘れない、ということだったのではないでしょうか。
 それは、23節において、出エジプトの際、葦の海を割った奇跡とここが結び合わされていることからもわかります。出エジプトの際、モーセはこの奇跡を記念して、出エジプト記15章で歌を歌っていますが、ヨシュアはここで、目に見える形で石を据えて記念としています。記念という意味では同じですが、目に見えると目に見えないという意味で両者には大きな違いがあります。実際、今日交読文で読んだ詩篇106篇において、イスラエルは、葦の海の奇跡を、主がなしてくださったみわざを、その恐ろしい自分達の神を忘れた、とあります。そういった意味で、目に見えるものへと、記念としてのしるしが変わったことは、イスラエルにとって大変大きな出来事だったのではないでしょうか。これは、忘れてしまいやすい人間イスラエルに対して、しかも、後の世代ならなおさらですが、より目に見える形で記憶にとどめ、思い出させるため、主があえて備えてくださったものと言えるもので、このしるしは主の恵みとも言えるものなのではないでしょうか。
 他方、記念のしるしが指していることは、渡河の事実ではありますが、その渡河自体が、15節から18節にあるように、聖なる行為であったこと、そして、24節に、「あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」とあるように、ヨルダン川が割れた奇跡の目的が、イスラエルが主を恐れるためであったことも見落としてはならない点であるといえましょう。目に見えるしるしではあっても、それが指し示すものは聖なる行為であり、それは主へのおそれを引き起こすという霊的な領域のことであることを覚えることはとても大切な点であります。と同時に、ここで示唆されている忘れっぽさとは、単に記憶のことではなく、霊的な忘れっぽさと言えるのではないでしょうか。言い換えれば、このことは、イスラエルの民が後の世代に、「これらの石はどういうものなのですか」と問われたら、渡河の奇跡のみを語るのではなく、それが聖なることであったこと、そして、主を恐れることもまた、同時に語ることが求められているとも言えます。

結び. 渡河の完了と、石の記述が記されている4章を見てきましたが、私たちはここから何を学べるのでしょうか。私たちも、主が成してくださったことをすぐに忘れてしまう、弱さを持つ人間です。また、表面的に物事を捉え、主が成してくださったことを自分の領域に落としてしまいがちなものたちです。更に言うならば、主がなぜそれを成してくださったのかに目を留めないことも多いのではないでしょうか。私たちにも、この石のように記念としてのしるしは与えられています。
 その代表的なものが聖餐式です。聖餐式は目に見えるものでありますし、これらのことによって、私たちは主がなしてくださったことを思い起こすことが出来ます。しかし、時にそのことを思い出すためだけになってしまっては本末転倒なのではないでしょうか。形骸化してしまっているのならなおさらです。聖餐式はあくまで聖なる行為であり、受けることによって、霊的に新たにされ続けるものであるのです。私たちにとっては聖餐式ですが、私たちがイスラエルの民のように「これらの石はどういったものですか?」と問われる時、聖餐式は主が霊的に忘れっぽい私たちのために与えてくださったしるしであり、主がしてくださったことを思い出す時ということだけではなく、それが聖なる行為であり、霊的に新たにされるものであることを今一度覚えたいものです。霊的に忘れっぽい私たちに目に見える形でしるしを与えてくださった主に感謝しつつ、本質的なことを見落とさないように、主を恐れつつ歩みたいものです。