礼拝説教要旨(2011.06.12)
あなたがたは力を受けます
(使徒 1:3〜11)

 「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。・・・」私たち地上の教会は、使徒信条により、イエス・キリストを信じる信仰を告白し続けている。十字架で死なれた主イエスは、よみがえって、今、天において私たちを見守り、とりなしていて下さる・・・・と。けれども、主イエスの復活直後の弟子たちは、すぐにも確かな信仰に導かれていたわけではなかった。彼らは、主ご自身によって整えられ、やがて大きな使命を与えられ、世に送り出されたのである。

1、四つの福音書はみな、イエスの復活の出来事を記し、復活後の出来事には余り触れていない。それは、十字架の大事さを告げるためであり、同時に復活の事実を、弟子たち自身が受け止めるのに、戸惑いがあったことを暗示しているかのようである。死からよみがえった主イエスは、復活のからだをもって弟子たちの前に現れては弟子たちを励まし、みことばをもって教え、彼らを次の働きのため、十分に整えようとされた。ただ勢いで世に出て行くのではなく、神によって押し出され、その上で出て行くよう彼らを導いておられた。その期間が「四十日」であったと記されている。「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(3節)

 ある時はエルサレムで、またある時はガリラヤで、主イエスは弟子たちの前に現れた。ご自分が、確かに生きていることを彼らに示す必要があったのである。それ程に、「復活」は常識を超えていた。「数多くの確かな証拠」を弟子たちの前に示す必要があった。ご自分が「霊」でないことを示すために、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われ、焼いた魚を食べられた。(※ルカ24:39)そうした折に、繰り返し語られたことは、十字架と復活を目で見た彼らが、やがて、確かな「証人」となることであった。そして、その証人たちに「出て行きなさい」と命じておられた。(ルカ24:48、マタイ28:19ー20、マルコ16:15、ヨハネ20:21)主イエスは弟子たちを「証人」とするために、時間を掛けて教えておられたのである。

2、その四十日の間、弟子たちの中には、はやる思いもあり、いつかいつかと、期待に胸を膨らますことがあったに違いなかった。主イエスは一貫して、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい・・・」と、聖霊が遣わされるのを待つよう命じられた。「わたしが父のもとに行ったなら、父は、代わりに聖霊を遣わしてくださる」と、最後の晩餐の席で約束しておられたからである。(ヨハネ14:16、26、15:26、16:13)聖霊は「助け主」であり、その助け主なしに世に出て行くことは無謀と、主ご自身が知っておられた。弟子たちは、それでもはやる思いが強かったのである。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(4〜6節)

 四十日という日数が過ぎていた。いよいよとの思いがあったのだろうか。けれども主は、その日、その時については、「あなたがたは知らなくてもよいのです」と明言しておられる。それは父なる神が定めておられることで、弟子たちは、そのことが起こったなら、力をいただくこと、それを覚えていなさい・・・と告げられた。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます、そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(7〜8節)聖霊が臨むと、弟子たちは力を受けること、その力を受けると、地の果てにまで「わたしの証人となります」と、大いなる約束をされた。そして主は、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれた。その主を見送っていた弟子たちに、御使いが現れ、主は再び来られることを告げたのであった。(9〜11節)

3、主イエスが目の前から去って行かれた後の弟子たちは、意外に落ち着いていたようである。エルサレムに帰って、泊まっていた「屋上の間」に集まり、「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(13〜14節)約束の聖霊が臨む日について、知らされないまま、祈りに専念したのである。その祈りの内に使徒の欠員を補充し、なお待ち望む日々を過ごしていた。主イエスの教えに聞き従っていたのである。それは何よりも大事なこと、尊いことであった。(15節以下)そして、昇天から十日、「五旬節」の日、激しい物音が家中に響き渡る現象を伴い、「炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまった。」聖霊が目に見えるしるしを伴って、弟子たちに臨んだのである。それは、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」という、人々の驚きの出来事となっていた。(2:1以下)

五旬節=ペンテコステ=の日、エルサレムで起こっていたことは、聖霊に満たされた弟子たちが、いろいろな国の言葉で、イエスの死と死からのよみがえり、復活を語るという途方もない出来事であった。人々は直ちには聞き分けるのは難しく、嘲る者もいたが、はっきりと「あの人たちが、私たちのいろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」と、その内容を聞き分けている人も大勢いた。ペテロは立ち上がって、丁寧に語り始めた。神の約束と計画によって、全てのことが成り、十字架で死なれたイエスが、死からよみがえられたからこそ、今このことが起こり、私たちは「証人」として語っている、約束の聖霊を注がれて、このように語っている・・・と。その力強い説教に心を打たれた人々は応答した。その日、三千人ほどの人が、悔い改めて洗礼を受け、弟子に加えられた。弟子たち自身が、神からの力を受けたことに驚き、迷うことなく、「証人」として歩み始めていたからである。

<結び> ペテロを始め、弟子たちは十日間の間、その日に何を語るのか、どの程度準備したのだろうか。もちろん何もしなかったのではなく、何よりも祈りに専念し、神が聖霊を遣わして下さる日を待っていた。その祈りを通して、これまでのこと、主イエスと過ごした日々、主が語られた教え、聖書の言葉を、筋道が通るように整理させられ、大切なことを語る備えを十分に導かれていたのである。主の約束は、その時が来ると、聖霊が「すべてのことを思い起こさせてくださいます」であり、「その御霊がわたしについてあかしします」であった。語っていた弟子たちは、主の約束の通りのことが自分の身に起こっていることを知って、益々力づけられていた。(ヨハネ14:26、15:26)

 助け主として遣わされた聖霊は、私たち一人一人にも注がれている。私たちはその事実を、今朝、この礼拝において、しっかりと心に刻みたい。最初のペンテコステの日は、目に見えるしるしを伴っていたのに対して、今日、聖霊は目に見えるしるしを伴うことはない。けれども、確かに私たちの内に宿り、私たちの傍にいて、私たちの心の内を励まし、支え、私たちの祈りを導いてくれる。私たちが主イエスを信じて従うこと、イエスの御名によって祈ること、これらは聖霊の導きと助けがあってできることである。イエスを救い主と信じる教会がこの地に立てられ、今日まで歩んでいるこの事実、これは聖霊の働きなしには有り得ないことである。イエス・キリストを信じる者の群れ、教会の存在そのもの、それは、神からの力づけ、聖霊の導きと助けによることである。私たちは神からの力を受けて、今あるのである。そのことをことを心から感謝したい。そして私たちも、主イエス・キリストの復活の証人であることを自覚し、その務めを果たす者であるよう祈りたいのである。