「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」エルサレムから20q余りのエリコは、良質な水の湧く泉があって、なつめやしやバルサムが豊かに茂り、ヨルダン川の東に渡る拠点となる重要な町であった。その町にローマは収税所を設け、人々から税金を集めていた。その町で、ザアカイは取税人のかしらとして、当時の社会では、当然のように金持ちになっていた。けれども、彼の心は満たされてはいなかったようである。(1〜2節)
1、彼は、生粋のユダヤ人として「ザアカイ」と名づけられ、その名が意味する「清い人」、また「義しい人」となるよう育てられたに違いなかった。ところが、ローマ帝国のために働く取税人となり、そのかしらに上り詰め、金持ちになっていた。町の人々は、決して彼を「清い人、義しい人」と認めることはなく、彼は、人々から蔑みや妬み、更には憎しみを買う、そのような生き方をしていた。「取税人」、それは不当に税を取り立てる悪人とされ、ならず者と同列の「罪人」と見られていた。彼が金持ちになれたのは、不当な蓄財によることは明白で、裕福にはなったものの、それで心が満たされることはなく、人々との接点は益々遠ざかり、孤独は深まるばかりでだったのである。
彼もまた、先の盲人と同じように、いつの頃からか「イエス」の名を耳にして、この方の教えと行い、また人となりに心を引かれていた。イエスの弟子の中に取税人がいたこと、取税人や罪人と食事をされたことなど、気になる噂を聞いていたに違いなかった。そのイエスがエリコに来られたのである。「イエスがどんな方か見ようとした。」彼は、イエスに会ってみたい、どんな方か、自分の目で見てみたい、そう願って外に出た。ところが、事はそんなに容易くなかった。「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」聖書が、わざわざ「背が低かったので」と記すのは、何故であろう。彼の人生の痛みや悲しみが、この描写に集約されているのかもしれない。人々に拒まれ、退けられていたこと、それがこの時のザアカイの現実であったと。(3節)
2、人々からの思いやりや助けとは、残念ながら無縁に、寂しい人生を歩んでいた。その反動で取税人になり、金持ちになろうとの決心をしたのかもしれなかった。人からの好意を期待できない彼であったが、この日はイエスを見るのをあきらめなかった。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」(4節)その木の枝振りは登り易く、隠れて遠慮がちに、でも、はっきりとイエスを見ようとするには好都合であった。先の盲人は、自分の目でイエスを見ることはできず、大声を張り上げたのに対して、このザアカイは、木に登り、息を潜め、イエスの通られるのを見届けようとしていた。
「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」主イエスは、ご自分からザアカイのいる木の下に進み、上を見上げ、彼の名を呼んで、「急いで降りて来なさい」と語られた。しかも「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と、一方的に宣告された。それは初めから決まっている、と言わんばかりの宣告であった。けれども、ザアカイにとっては、最高の喜びとなった。迷うことなく、木から降りて、「大喜びでイエスを迎え入れた。」ただお客を迎え入れた以上のこと、イエスを神と信じ、この方に従いたいとの、心からの願いを起こされてのことであった。(5〜6節)
3、これを見ていた人々は、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と、イエスの振る舞いを良しとはせず、つぶやいていた。(7節)ザアカイの評判は悪く、彼の家に客となって泊まるとは、一体何事かといぶかったのである。けれども、ザアカイ自身は、立ち上がって、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と、自分の非を認めるとともに、悔い改めを実行しますと約束した。(8節)彼が決意した内容は、施しについても、また償いについても、その当時、定められていたことを遙かに超えていた。それはイエスにお会いして、そのイエスの愛に触れたことによる、喜びからの決心であって、感謝にあふれた決意であった。この方の前に、自分の心の内が見透かされていること、隠しようのないことが分かって、真心からの悔い改めに導かれていたのである。(※出エジプト22:4、7、9、レビ6:5)
主イエスは、彼に向かって告げられた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(9〜10節)人々がどんなにいぶかり、疑っても、「あなたは確かに救いに入れられました。あなたの家に、神の救いが来たのです。あなたも信仰によるアブラハムの子です。神の民です」と、明言されたのである。また、「わたしは、神を離れた人、神を見失い、そのために失われている人、悲しみや痛みを抱えて生きている人々を、捜し出して救うためにこそ来たのです」と、ご自分が世に来られた目的、その意味を宣言しておられた。実際に主イエスは、ご自分の方からザアカイに近づき、目を留め、言葉を掛けられた。彼は、全く失われていたのが、主によって捜し出され、救いに招き入れられたのである。もし主が声を掛けることなく、木の下を通り過ぎていたなら・・・。しかし、ちょうどその日、その時、主イエスが彼に声を掛けて下さった。
<結び> ザアカイは、神の救いからは全く遠い生活をしていた。この世で、「取税人、罪人」と揶揄される生き方を選び取り、その「かしら」に上り詰めていた。また「金持ち」になり、神の国に入るには、人一倍難しい者となっていた。けれども、人間の側ではどんなに救いから遠い者でも、神がその人を捜して救って下さることを、この出来事は明らかにしている。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(18:27)どんなに神から遠く離れ、失われていても、神がその人を救って下さるのである。神がその人を救うと決められたなら、その人の心を動かし、その人と出会う時を備え、神の呼びかけに、心から答えるように導き、悔い改めの実を結ばせて下さるのである。
ザアカイだけでなく、全ての弟子たちが主イエスに見出され、救いに入れられていた。そして、私たち一人一人が、主に見出される喜びを経験し、感謝をもって、主イエスに従う者に変えられたのである。主は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」と言われた。そして「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と語っておられる。(ルカ5:31〜32)ザアカイも、そして私たちも、そのために来られた主イエスに招かれ、見出され、神の元に立ち返ることができたのである。神の元に立ち返る喜びと感謝は、それ以前の生活を一変し、必ず、悔い改めの実を結ぶ歩みを導いてくれるものである。私たちは、今、思いを新たにし、神によって救われた者として、主イエスとともに歩んでいることを、しっかり心に刻みたいのである。
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