礼拝説教要旨(2011.05.29)
わたしに何をしてほしいのか
(ルカ 18:35〜43)

 「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。」(35節)エルサレム行きの旅は、いよいよその目的地を前にしていた。イエスの周りには、この時も大勢の人がいた。教えを求める人、助けを求める人、ただ好奇心で取り囲む人のほか、敵対心を抱く人もいたに違いなかった。町に近づくにつれ、人だかりは多くなり、何事かとの騒ぎも大きくなり、その物音を、道ばたにいたこの人が聞き逃すことはなかった。「群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。」(36節)

1、彼は、来る日も来る日も、道ばたで物乞いをするだけであった。けれども、前を通り過ぎる人々の声には、いつも耳をそばだてていた。そして、いつの頃からか、「イエス」という名を耳にし、その人のことに、大いに関心を寄せていたのである。これまで、自分からイエスを訪ねることはなかった。というより、その機会がなかったのである。けれども、この日は自分がいる近くを、今、その方が通り過ぎようとしているのを知って、胸の高鳴るのを抑え切れなくなっていた。彼は、遂に大声を張り上げた。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」(37〜38節)「ナザレのイエス」が通られると聞いて、「ダビデの子のイエスさま」と叫んだ。イエスという方は、神が遣わして下さったお方、約束の救い主と理解して、助けを求めたのであった。

 ただ単に不思議なことをする人、力ある人というのではなく、神からの人、いや神ご自身との期待を込めて、この方のあわれみを求めた。それは必死の叫びとなった。群衆が彼を黙らせようとしたが、彼は「ますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。」(39節)その叫び声は、一段と大きくなって、誰も制止できないものとなっていた。その声がイエスに届いた時、「イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。」遂に彼は、主イエスの前に進み出ることができた。その時、イエスは「わたしに何をしてほいいのか」と、尋ねられた。彼の求めをご存知の上で、そのように尋ねておられた。あわれんで下さいと願う彼には、具体的に助けて下さい、癒して下さいとの願いがあることを見抜いておられたのである。(40〜41節)

2、彼は迷うことなく、「主よ。見えるようになることです」と答えている。彼は、道ばたで物乞いをしていた。けれども、イエスに向かっては、物乞いではなく、自分の人生においての、一番の問題を持ち出した。目が見えないことが、自分ではどうすることもできないことであって、この最重要課題の解決を願い出たのである。人に頼んでも無理なこと、これまでどうにもならなかったこと、これを何とかしてくれる方として、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と、叫び続けたのであった。彼は、自分の課題に気づいていた。そして、その解決を主イエスに願い求めたのである。私たちの祈りは、果たしてどのようなものだろうか。何を求めているのか、またどれだけ切実に求めているだろうか・・・。

 主イエスは、彼に「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われた。すると「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。」その彼の様子を見た人々は、神を賛美した。人々はただ驚くだけでなく、神への賛美が溢れたのである。(42〜43節)見えるようになった時、彼はしっかりと、イエスに従って行った。これまでの手探りの歩みとは違って、どこに向かって進むのか、その第一はイエスについて行くことと、迷うことはなかった。彼はイエスの弟子となって、その名を覚えられるまでになったようである。(「バルテマイ」マルコ10:46)この人は、一体誰が救われるのかとの問いの答えのように、神によって救いに入れられる幸いに与っていた。(※貧しい人々の代表のようにして・・・)

3、この盲人の癒しについて、三つの福音書の記事には、幾つかの違いがある。ルカとマルコは、盲人は一人。マタイ(20:30)では二人。ルカではエリコに近づいた時、マタイとマルコは町を出る時のこと、と記されている。いろいろな解釈があるが、バルテマイはイエスが町に来られた時から、やがて町を出るまでの間、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と、執拗に叫び続けたのかもしれない。このイエスというお方こそが、私のどうすることもできない事柄を、完全に解決して下さると信じたので、どんなに人が咎めてもひるまず、黙らせようとたしなめても黙らず、「私をあわれんでください」と叫び続けた。それは、「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われたように、イエスを主と信じ、この方に拠り頼もうとする、彼の信仰そのものであった。主イエスに心を向けることに、全く迷いはなかったのである。

 けれども、彼にその「信仰」があったから、直していただけたのではなかった。彼に信仰の強さや、求めの執拗さがあったので、救われたのではなかった。直すのも、救うのも、それを成して下さるのは神である。しかし、彼が心から信じて神を頼った、その信仰を、主イエスがはっきりと認め、喜ばれたのである。そのような励ましを得たからこそ、彼は、目が見えるようになった時、ためらうことなく、「神をあがめながらイエスについて行った。」自分にとっての一番の難題を解決して下さった方に、生涯ついて行きたいと願うのは、真に自然なことである。私たちは、自分の信仰に関して、果たしてそのように考えているだろうか。主イエスが、私に何をして下さったのか、私は何を求め、何を与えられ、そして、私はこの方に生涯ついて行きたい、と心から願っているのか、自問自答するように求められている。

<結び> 「わたしに何をしてほしいのか」と、主イエスは盲人に尋ねられた。同じ問いを、主が私たちにも語っておられることを、心に留めたい。ついつい、日頃の些細なことに心を奪われ、真剣に神に求めるべき事柄を、後回しにしていることはないだろうか。人生において一番大切なこと、神を見る目が閉ざされたまま気づかず、見えると言い張る愚かさを繰り返すのか。目を開かれる前の、罪ある全ての人の姿はそれである。(※ヨハネ9:39〜41)けれども、主イエスを救い主と信じた者は、主イエスのあわれみによって、信仰の目を開かれ、主イエスに従う者とされた者である。だからこそ、私たちは目を開かれた者として、イエスに従って歩む信仰の生涯を、一層確かにしていただくことを、心から求め続けたい。信仰から信仰へと進ませていただきたいのである。神を信じて歩む私たち一人一人が、益々神に喜ばれる者となるように!
(※ヘブル11:6、ヨハネ第一5:14〜15)