私たちの教会が、今日この「教会設立32周年記念礼拝」を迎えるまで、確かに歩み続けることを許され、今一人一人がこの場にいること、それは計り知れない神の恵みによることである。一体何によって、これまで支えられてきたのか。それは「みことば」を待ち望む(詩篇119:81)ことによってであり、また「わたしはあなたとともにいる」との約束(マタイ28:20、使徒18:10)に、励まされ、導かれたからである。そして、今朝は、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。・・・主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(1〜2節)と歌われる、この「みことば」に耳を傾け、教会の歩みを振り返ってみたい。
1、詩篇103篇は、詩篇の中でも飛び抜けた一篇、全篇を貫く賛美はどれも心に残るものばかりである。多くの聖徒たちがこの詩篇によって教えられ、知恵と力、勇気を与えられて来た。ダビデは、自分自身に言い聞かせるように語り、人々にも、神を仰ぐこと、神を信じ、神に従うことがどれほど幸いなことかを告げようとしていた。今朝の礼拝、また午後の話し合いとの関連で、繰り返し私の心に響くのは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」との言葉である。「教会設立記念礼拝」を迎えるにあたり、主の良くしてくださったことを覚えているか、忘れてはいないか・・・と問われる。教会全体としても、主の良くしてくださったことを覚えているか・・・と。
「何一つ忘れるな」と言われても、そんなに覚えてはいない、忘れているのもまた現実である。「あかし集2009」には、教会設立30周年ということで、設立前史と後史としての歩みをまとめたものの、抜け落ちたことが沢山あって、それらを補い、また満たすことは容易でないと感じている。一方で、記録に残さない限り記憶は失われると言われ、教会の歴史は、どのように保存されるのかと、心配も大きくなっている。恐らく一人一人の人生においても同じで、家族の大切なことなど、どのように後に伝え、残すのか、皆それぞれに考えることであろう。実際には、いろいろな経験をしながら、それを「主の良くしてくださったこと」として覚えているのか、それとも忘れてしまったのか、そのことをこの詩篇は、立ち止まって思い巡らすように勧めている。
2、この勧めによって明らかになるのは、私たちが余りにも忘れやすいことである。恵みを数えようとして、思い出すことは、嬉しかったこと、感謝なことよりも、かえって辛かったこと、悲しかったこと、思い出したくないこと、ということはないだろうか。ただ嬉しかったことよりも、辛かったことの方がより鮮明に記憶に残っている・・・ことである。だからであろうか、詩篇は、全くの絶望から救い出され、助けられていることを告げている。自分に言い聞かせるように。「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」(3〜5節)
そして、私たち人間は、どんなに取るに足りない者であるか、それに比べて、主なる神の恵みとあわれみは、底なしで無限であることを思い返すようにと、賛美の言葉が続く。(6〜14節)そのような理解が、この詩篇を最後まで貫いている。(15〜22節)主が目を留めて下さるからこそ、私たちの幸いは揺るがない。主に支えられる者にできること、それは賛美である・・・と。「主をほめたたえよ。すべての造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」小さな小さな、ちりに過ぎない私たち人間であるが、私たちの賛美を、主が受けて下さり、喜んで下さるとは、何とも不思議、驚くべきこと! ならば私たちも、心して、恵みを数え、「主の良くしてくださったこと」を、何一つ忘れないことを、心掛けたいのである。
3、この32年間のこと、その始まりは、1979年5月20日、三人の長老を選出して教会設立を果たしたことである。その時、牧師と伝道師がいて、複数牧会であったが、間もなく、熊田雄二伝道師は改革派に移った。教会にとって最初の試練であったが、主は乗り越えさせて下さった。81〜85年にかけて、教会は祝福された。困難もあったが、川越に株分けの機運が高まり、86年には片岡由明牧師を招き、伝道所開所が導かれた。ところが、開拓伝道の難しさを味わい、4年後に片岡牧師は退任。以後、多くの教師方の助けを得ながら、ようやく94年4月、伝道所の独立を迎えた。しかし、その喜びは三ヶ月後の分裂により、痛みに変わった。思いも寄らないまま、多くの時間と労が必要となった。
私たちの群れから独立した教会の分裂であったが、直接の関わりが残り、私たち自身が多くの痛みを経験し、乗り越えるのは容易でなかったと、今更ながら思わされる。また今もその渦中にあると自覚している。その後17年となるが、主の支えがあってこそ、私たちの教会は歩んで来られたと、心から感謝するばかりである。しかし、痛みの出来事さえも「主の良くしてくださったこと」なのか・・・と問い返しては、「いつも喜び」「絶えず祈り」「すべてのことについて感謝する」ことと、どのように繋がるのか、今年度は、課題をいただいたように思う。そして、痛みや苦しみの時に、主が共におられ、共に歩んで下さると知ること、これが、「主が良くしてくださったこと」を忘れない秘訣であり、恵みを数えるカギと気づかされる。どんなに物忘れが激しい者でも、苦しみのことは忘れないなら、そのような時こそ、神が共におられたと気づくことによって、必ず恵みに目が開かれるからである。その間、隣地購入と牧師館取得は特別な恵みと、これによって大いに励まされた事実も忘れられない。
<結び> 32年間の、前の15年と後の17年、後の方が長くなった。今ここに共に集いつつ、32年前を知る者は少数となって、17年前も知らない者が多くなっている。あの時はこうだった・・・、いやああだった・・・と言うことは、よほど注意がいると実感する。けれども、教会にとっては、主が成して下さったこと、主が恵みを注いで下さったことについては、丁寧に語り継ぐことがとても大事となる。教会を通して、福音の宣教と立証を成し遂げて下さっていることを、何よりも感謝して、心に留めたい。伝道の働きは、主が教会を通して成して下さることと。すなわち、一人一人がキリストに出会ったこと、そしてこの教会に連なったこと、そこにこそ、主なる神の大きな恵みとあわれみが注がれていることを覚えたいのである。
一人また一人と、主が確実にご自身の民を招き、確かな信仰に導かれたので、今この教会があることを喜びたい。時に受洗者のいない年があり、淋しい思いもした。けれども、救って下さるのは神ご自身であり、私たちではないとしたら、その事実を良しとされたのは、神である主ご自身である。私たちは、常に「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」との教えに従い、これからも歩み続けたい。喜びの時に感謝に溢れ、悲しみの時には、祈りをもって神を待ち望み、辛いときこそ、主が共におられることの幸いに支えられて、歩み続けたいのである。
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