礼拝説教要旨(2011.05.08)=2011年度主題聖句=
十字架のことばの不思議な力
(コリント第一 1:18、テサロニケ第一 5:16〜18)

 2011年度を歩み始め、今年はその4月に受難週とイースターを迎え、主イエスの十字架の死と、死からのよみがえりが私たちの信仰の根幹であると、改めて覚えることが導かれた。そして5月には、「日本長老教会創立記念礼拝」と、私たちの教会の「教会設立32周年記念礼拝」が続けて巡ってくる。神が教会を建て、そこに私たちが呼び集められ、その教会によって、私たちは養われ、育まれている幸いを感謝するばかりである。今朝は、今年度の主題聖句に目を留め、そのみことばによって、私たちの心を整えられたいと願っている。

1、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」パウロがコリントの教会に宛てた手紙の冒頭で、このように語った背景には、その当時においても、イエスの十字架の出来事について、人々のいろいろな思いが交錯していたことを物語っている。イエスが十字架で死なれてから、二十年余りが経過していた頃である。十字架の死が実際にあったとしても、死からよみがえられたかどうかは、賛否が入り乱れ、遂には十字架の死そのものを揺るがしかねなかった。十字架の死の意味がぼやけ、教会の働きそのものが本質から逸れる、危険な兆候が見られたのである。教会の中に、一体何が起こっていたのか・・・。

 この手紙全体に流れる教えは、教会の一致についての勧めである。一致を脅かす問題が生じていたからである。パウロにつくのか、それともケパに、いやアポロに、いやいや私はキリストに・・・と、事態はかなり深刻であった。教会はそのような分裂騒ぎを起こせるほどに、多くの人が集まり、成長を遂げていたのも事実であった。けれども、その成長は、目に見えることに心を奪われる、本質を見失う性質のものであった。それ故に、「十字架のことばは」と語って、イエスの十字架の事実とその意味の大切さに、今一度立ち返るよう諭している。主イエスが十字架で死なれたこと、その身代わりの死こそ、救いの原点であり、その死こそが罪の赦しをもたらしていることの重さを、心を込めて語ろうとした。主イエス・キリストの十字架を空しくしてはならない・・・と。

2、世の人々にとって、十字架が空しいもの、どんなに愚かしいものであっても、イエスを救い主キリストと信じる者にとっては、神の力、絶大な拠り所である。パウロ自身、あの十字架で死んだイエスを信じるなんて、何と愚かで馬鹿げていることかと、散々キリストを信じる者たちを迫害していた。惨めな死を遂げたイエスを信じるなんて、有り得ないことと。それは、この世で知恵や知識を誇る時、またこの世の力や権威を追い求める時、必ず陥ることであった。けれども、この世の知恵や権力とも、そして富や地位とも全く無関係に、キリストは十字架で死に、三日目によみがえって、死に対して勝利しておられた。十字架の出来事は、ただ心から信じる人々を救うためだったのである。

 パウロは、旧約聖書に親しみ、戒めを行い、何とかして救いに入りたいと、それはそれは熱心であった。しかし、その熱心は、自分を誇り、他の人と比べているだけのものと気づかされた。よみがえった主イエスに出会ったからである。そのイエスこそキリスト、約束の救い主と悟ったことによって、彼の人生は大転換を遂げた。人が愚かと退けていた十字架こそ、「神の力」であり「神の知恵」と、心から信じた。イエスの死は、それで終わらず、イエスは死からよみがえって、今生きておられる。生きておられる方を信じる信仰には、大きな力、不思議な力が溢れていた。その信仰は、誰をも隔てず、誰をも拒まず、全ての人を招く、真に開かれたものである・・・と、彼は心から信じた。私たちも、今一度、その確かな福音に生き、また生かされていることを悟りたい。そして、この福音を宣べ伝える使命を与えられていることを覚えたい。

3、私たちが「十字架のことば」によって生き、すなわち、キリストの福音を信じて生き、そして、その福音を宣べ伝えて歩むために、何が求められているのか。それは神の力に支えられ、また促されて生きる、不思議な生き方であろう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」この地上の日々には、様々な課題があり、その課題の重さに圧倒されることがある。それでも、神の力に支えられるなら、悲しみや苦しみも、必ず喜びに変えられる。だから「いつも喜んでいなさい」と勧められている。また、多くの課題があるので、「絶えず祈りなさい」と命じられる。それは強いられることではなく、全く遠慮することなく、祈ること、求めること、訴えることが、私たちには許されているのである。

 祈ることを知った者は、必ず幸いな経験をする。祈りが聞かれることの幸い、その確かさを味わうことになり、そして、「感謝」に導かれる。だから、「すべての事について、感謝しなさい」と勧められている。現代社会は、感謝することより、権利を主張し、求めが聞き入れられないからと抗議し、不平や不満をより煽る、そのような傾向が強い。そのような時代に生きているからこそ、みことばが命じていることとして、「キリスト・イエスにあって神が望んでおられること」、「いつも喜び」、「絶えず祈り」、「すべてのことについて感謝する」ことを、私たちの大切な課題とすべきと気づかされる。私たちには、いつも喜びがあり、足りない時には、祈りをもって、神に頼る道が備えられている。神に祈る者は、全知全能の神を待ち望むのである。その神の助けは絶大である。そして、神に助けられた者は、感謝に溢れるのである。
(※コリント第二6:1〜10、ピリピ4:11〜13)

<結び> 「十字架のことばは、・・・私たちには、神の力です」と言い切る時、その「神の力」は「不思議な力」と覚えたい。キリスト教会であっても、教会がこの地上にあるため、つい「力」を取り違えることがある。人間の知恵や力、賢さを超える「神の力」とは、人が愚かとして退けることや、また弱さや見窄らしさとして、人が見捨ててしまうことの中に現れるもの、正しく「不思議な力」なのである。(コリント第二12:9〜10)

 私たち一人一人が、どんなに小さく、この世で取るに足りない存在と思えても、その私たちが、喜びをもって生きているなら、そして祈りつつ歩み、感謝に溢れて生きているなら、神は私たちの存在を喜んで下さるのである。必ず、私たちを用いて、ご栄光を現される。私たちの小さな証しを用いて、神が福音の前進を成し遂げて下さるに違いない。この所沢の地にあって、ご自身の民を、尚も召し集めて下さることを期待し、私たちの祈りや働きを、主に捧げたい。必ず実を結ぶことを信じて!